事業仕分けをパフォーマンス劇場にするな

 今日(24日)から事業仕分けの後半戦が始まった。事業仕分け自体は国民の高い支持を受けており、鳩山内閣の支持率の下支え役を果たしているということだ。私も公開の場での事業仕分けには基本的に賛成である。
 だが前半戦が終了したところで、現行の進め方について色々な問題が浮かび上がっている。そうした中で最大の問題と思われるのは、仕分けに関する判断基準が不明であることだ。これはこの連休中のテレビ番組でも様々な角度から指摘されていた。個人的にも判断基準がきっちり示されない一方で、必殺仕分け人の皆さんが、なぜああもすぱすぱと快刀乱麻の決断が出来るのか不思議でならない。
 基本判官贔屓の国民には、悪代官とイメージがだぶるお役人が一刀両断に切り捨てられる様子は、まことに溜飲が下がる。世論調査の高い支持率も詰まるところはそんなところであろう。数字は数字として、こうした結果に悪乗りすることは品性をも疑わせる行為である。稀代のパフォーマーである小泉さんの張子の虎ぶりに幻滅を感じたからこそ、国民は民主党を支持した。しかしながら攻守ところを変えればまた、鳩山(or小沢)パフォーマンス劇場であってよいはずがない。
 テレビで目立つのは何といっても蓮舫さんである。クール・ビューティーを気取って案件を右から左に捌くさまは、往年の「なまいき蓮舫」のまさに面目躍如といったところである。彼女は所詮出自がタレントである。それ以上でもそれ以下でもない。だからまだ許される。
 だが統括役を務める枝野さんについては、決して看過出来ない。否、枝野さんは政調会長の重職にあったわけである。看過してはいけないのである。22日に放送されたフジテレビ『新報道2001』をご覧になった方も多いであろう。ここでの枝野さんの発言を聞いてどう感じられたであろうか? 事実上凍結となったスパコンに関してこの番組では多方面から取材して、その開発意義を訴えた。そうした事実の突きつけを前にして、逃げ場を失った枝野さんは「お役人がきっちり説明していれば、また違った結論となった」と、責任を役人に転嫁したのである。
 私はこれを見ていて、怒りを通り越して出るのは溜息ばかりであった。要するにこれが今回の事業仕分けの正体であるからだ。明確な判断基準を設けないままに、説明者の説明の巧拙だけで案件を捌く。こんなことで事業仕分けなど土台出来るはずがない。
 これまで私が個人的に接した主計官の経験者や会計検査の経験者は、可能な限り現場に足を運んで担当する事業への理解を磨き上げていた。以下は、会計検査院OBから聞いた話である。当時私が勤務していた地方都市では、国立の医大病院と県立病院が隣り合わせに設けられていた。そして両者は地下トンネルで結ばれており、いざという時の両者の応援体制が整えられているということであった。
 私は両病院の前を頻繁に行き来していたが、その事実はまったく知らなかった。私のようなよそ者でなくとも、市民の多くはこの事実を知らなかったことであろう。会検OB氏は自らの足で現地に赴き、その目で実情を確認し、評価を行ったからこそ、そうした事実を知りえたわけだ。スパコンを仕分けするならするで、その予備知識と客観的な意義等については、仕分け人自らが事前に能動的に学んでいなければならないことである。
 その労を惜しんで、準備時間や説明者のせいにするのであれば、そんな仕分け人は要らない。そもそも仕分け人の役割など引き受けるべきではないのだ。枝野さんの言動の是非はあまり大きく取り上げられていないが、彼がはしなくも洩らした一言は、きわめて大きな問題である。
 ところでそもそも、今仕分けの実質的な主役である「構想日本」の成功体験は、多くは地公体の場でのことであろう。地公体レベルであれば、八っつあん、熊さん的な床屋談義のセンスでもこと足りる。だが国政は魑魅魍魎の世界である。明確な政権としての政策指針が不在の中で、事業仕分けなど本来的に出来るものではない。後半戦では「思いやり予算」なども俎上に乗せられるということだが、繊細な外交問題を八っつあん、熊さんがどう捌くはスパコン以上に注目されなければならない。
 今回の事業仕分けは以前にも指摘したように、官僚の天下り先法人とそこでの退職金を含めた報酬支払の無駄に的を絞るべきであった。実態を炙り出し、その適否を判断するだけで国民はもう拍手喝采である。大向こうが唸ってしまう。そうであれば単なるパフォーマンスにとどまらず、無駄撲滅の実利は充分に上がる。したがって政権の人気は否が応でも一層のこと高まることとなる。
 繰り返しになるが、私は事業仕分けについては基本的に賛成である。だが、ただそれが諸手を挙げて賛成出来ないのは、黒子(実質的な主役)としての構想日本と、その実働部隊である枝野さんをはじめとする仕分け人に違和感を感じているからにほかならない。
 枝野さんはさすが弁護士出身だけあって、「形式論理」の申し子である。タレント蓮舫さんなどもその亜流である。真似っ子である。ビジネススクールの代名詞ともなっているケーススタディ方式は、もともとロースクールの専売特許であった。ハーバード・ビジネススクールが、ロースクールの方法に倣ったというのがその真相である。法廷の丁々発止のやりとりは、一種のヴァーチャル空間での鬩ぎ合いということである。真実の追求よりは論理の美しさが優先される。つまり、そこには決して大岡裁きなどは存在しないのである。
 また必ずしも、構想日本がすべて糸を引いているということではないかもしれないが、基本的にその影響力が大きいことは間違いない。構想日本を主宰する加藤秀樹さんは元大蔵官僚であり、日本財団(旧船舶振興会)系のシンクタンクである東京財団の会長兼理事長ということでもある。旧船舶振興会は民間の財産法人ではあるが、元々特殊法人的性格を持った組織であった。旧大蔵官僚で、現在は旧特殊法人の流れを汲むシンクタンクのトップ。こうした人物に依存することは、民主党の官僚依存脱却と齟齬を来たすものであるのか、ないのか。またそれ以上に、実況中継に垣間見られるような論理に偏りすぎる議論展開は、血も涙もない専横として目に映ってしまう。
 結局、論理が優先され、パフォーマンス・ショーに徹するということであれば、あれだけ否定した小泉劇場同様、国民不在の政治が相も変らず引き継がれるということだ。枝野・蓮舫に限らず、要はかくも政治家に人材を欠くことが、わが国の不幸のはじまりということであるのかもしれない。このままでは民主党頑張れの声も遠からず遠のいてしまう。