そこが変だよ! 日本人の自己主張

 わが家は東京郊外の戸建てである。10年ほど前に、100戸ほどが纏めて売り出された建売りであるが、植栽が豊富で、シックな外観で統一された街並みが気に入って購入した。戸建てに限らず建物は年数を経れば補修が必要となる。わが街も10年を経てこの何年かは屋根や壁の塗り替えに忙しい。わが家も現在工事中である。
 私は元々街並みの景観が気に入って家を購入したわけだ。だから極力壁の色も風合いもこれまでのものを維持したいと考えている。ところが100戸あれば、十人十色ならぬ百戸百色で街の風合いもへったくれもあったものではない。てんでに好きな色に塗り替え始め、その結果、ピンクや真っ黄っ黄の家が誕生し、街並みが死んでしまった。
 昔住んでいた場所の近くに旧公団(現UR)の開発した膨大な団地があって、そこの街並みは純和風建築の隣が英国風の住宅といった具合に、見事バラバラであった。したがって折角建てた一世一代の住宅も、お互いの個性が打ち消しあって何ともやるせないちぐはぐ感を醸し出していた。
 そうしたことを避けるために、この街に移り住んだわけである。ところがその団地ほどではないにせよ、その団地と同様のことが起き始めているのである。10年も経つと最初からの住民と入れ替わりに中古購入者が入って来る。私の見るところでは、そうした中古購入者に概してよりちぐはぐ感を作り出す住民が多い。最初からの住民がそのコンセプトに惚れて入居している一方で、後からの住民はそのことにあまり拘らない傾向が強いように思われるからである。
 ピンクや黄色に壁を塗ったくる人たちは自分の家だから好きにしていいのではないか、またそれが個性の発揮だと考えているのかもしれない。だが街は自分の家だけで成り立っているわけではない。昨年問題となった漫画家の謀図かずおさんが建てた『まことちゃんハウス』なども同じことである。住民がそこに住むのはその街の風合いが好きだからである。それをぶち壊わされたのでは堪ったものではない。特に後からやって来た住民にそれを壊す権利はない。
 翻って日本の街がとりわけ欧米と比べて汚く感じるのは、そうしたちぐはぐ感の影響が大きいからだと思う。これは先にあげた旧公団の団地に限らず、都心部のビジネス街においてもその例は多い。一つひとつは建築の粋を誇ったとしても、全体で調和がとれなければ目に残るのは醜悪さだけである。
 私が不思議であるのは、日本人は未だ人間関係において必要以上に他人の目を気にするくせに、なぜこうしたところで調和を乱して平気であるのかということである。戦後教育のせいもあって、個性や権利を履き違えている人間が増えているということであるのかもしれない。
逆に個性が尊重されると言われる欧米において、不便さを凌ぎながらも住景観の維持に努力しているわけである。これはつまりは、個性や権利の発揮場所が日本人と異なるということであるのかもしれない。
 個性や権利は行き過ぎれば、それは単なるわがままである。われわれが受けて来た戦後教育においては、自由と権利ばかりが強調され、義務とか全体への奉仕という観念が極端に置き去られて来た。だからわがままな人間にばかりなってしまう(勿論私を含めて)。
 今日本が抱えている問題は、ほとんどがわがままに端を発している。国民は国民ですることもしないで口を開けて待つばかり、官僚は官僚で今までの既得権益にしがみつくばかり、経営者は経営者でなりふり構わず儲け主義に走るばかり。これでは借金が増える一方であるのも当たり前である。
 55年体制は一定の意味があったことは否定出来ないまでも、兎にも角にも崩壊した。政治体制の崩壊はあらゆる社会システムへの変革を迫るものである。中でも対応を急がなければならないのは、教育問題である。戦後教育が良くも悪くも日教組の領導下にあったことは間違いない。そのことが必要以上に個性や権利ばかりの主張に繋がっているとすれば、その見直しこそ急務ということである。