中川昭一さん逝く

 中川昭一さんの死はショックだった。私は彼と直接面識があるわけではない。繋がりと言えば、第一に、私は彼の選挙区の出身であること、したがって第二には、彼の後援会には幹部として私の友人・縁者が多数加わっていたこと、そして第三には、政治記者だった私の岳父が昭一さんの父である一郎氏と大変懇意にしていたこと。それだけである。
 昭一さん急死の報に接して、しどろもどろ記者会見で袋叩きにしたマスコミ各社は、踵を返してこぞって中川さんの功績を称えている。このことは洩れ聞こえて来る地元の評判とはまた違っており、これでは実像が一向に見えて来ない。人間には毀誉褒貶があって当たり前である。一国の命運を担う政治家であればなおさらのこと、それがなければおかしい。
 こうした中で、ただ地元有権者が中川さんにはっきりとノーとの判断を下したことだけは、はっきりしているわけだ。町村さんや武部さんが比例区で何とか復活当選する一方で、中川さんはそれも果たせなかった。時代が変わり如何に民主党風が吹きまくったといえ、これは否定されない真実である。
 今彼の死因を巡って憶測が飛んでいる。不自然な死であることから、一郎氏の死因を想起する中で“自殺”云々も取り沙汰されている。死因の詮索などはどうでもよい。思うのは、彼の人生が幸福なものだったかどうかということだ。
 中川さんは麻布→東大→興銀のエリートコースばかりが喧伝されるが、東大に入る前に慶應で2年仮面浪人をしている。これが父一郎氏の意図かご本人の意図かは知らない。凡夫であれば慶應で大満足するはずだ。だが慶應では駄目で、東大にチャレンジしなければならなかった心情はいかばかりのものであったのだろうか。予断ながら、私の知人に早稲田に席を置きつつ東大を受験し、結局失敗して慶應にいった人物がいる。凡夫の代表である私にはその人の真情が未だに分からない。
 父一郎氏は北海のヒグマと称されたように野人であった。北海道十勝の開拓農家の息子として生まれ、地元の農学校を経て苦学して九大農学部を卒業。そして当時の北海道開発庁(直接的には農林省)に入庁。その後開発庁長官となった大野伴睦氏に見出され政界入りすることとなる。一郎氏はそうした生い立ちもあってか、若い頃は浅沼稲次郎氏に心酔し社会党を支持していたということでもある。
 今でこそ温暖化のせいか随分暖かくなったが、私の少年時代には冬の十勝はマイナス30度を下回ることが年に何度もあった。こうした気温は市部に暮らしても厳しいものである。これが農村部であれば、一層のこと耐え難いものであることは容易に想像がつこう。一郎氏はそうした中で青春時代を送ったわけである。私は同郷人として、彼の原点が真冬の”マイナス30度”にあったことを確信している。
 また一郎氏はその風貌からヒグマと仇名されたものの、岳父によると、その実繊細で情誼に厚い人であったということだ。だからこそ農民を中心に地元の有権者は、圧倒的に彼を支持したのであろう。没後四半世紀を経た未だに一郎氏を慕う声は多い。
 翻って昭一さんは、多くの世襲政治家がそうであるように東京育ちである。地盤を十勝としているが、彼は十勝の地に継続的に住んだことはないはずである。したがって彼が、”マイナス30度”という一郎氏の原点など充分に理解することはなかったであろう。
 私は政治家としての地元密着には反対である。だが政治家としての“志”の原点が地元に培われることは否定しないし、むしろ大事なことであると思っている。これは鳩山兄弟を含む多くの政治家にも言えることであるが、親の“地縁・血縁”以外に縁もゆかりもない選挙区からなぜ立つのであろうか。そうした文脈で考えるならば、彼らは選挙に出るのなら東京から出馬すればよいのだ。本当はその方が、ご自身にとっても、都民にとってもハッピーなはずだ。
 中川一郎氏を支持するとして、その息子まで支持する選挙民の真情はどういうことなのであろう。地元への利権誘導を息子が引き継いでくれると考えるからであろうか。それだけのことならば敢えて血縁者でなくてもよいはずだ。DNAのなせる業なのであろうか。今般有権者が昭一さんに見切りをつけたのは、そうしたDNAなども否定してしなうということなのだろうか。私にはよく分からない。
 死者に鞭打つようで恐縮であるが、私は元々昭一さんは政治家に向いていないと考えていた。父一郎氏もそうであったが、昭一さんは一層繊細すぎると感じていたからだ。酒や薬に頼らなければ活動出来ないとすれば、その理想がいくら高邁であっても、政治家としての能力は限りなくゼロに近いということであろう。そして期待が大きければ大きいほど自己分裂が激しくなる。
 一個人の幸福ということであれば、昭一さんは銀行マン生活を全うした方がよかったのではないのか。たまたま中川一郎という偉大な政治家を父親に持ったために、元来向かない政治の道に進んでしまった。これは安部さんだって、麻生さんだって、はたまた鳩山さんだって同じことである。
 色んなしがらみがあるにせよ、本来的に向く向かないの議論を無視して、当たり前のごとく後継者に血縁者を当てることの咎めは、実は国民に対してより、むしろ世襲政治家自身にこそ大きいのではないのか。中川さんの急死に接し、改めて職業選択の自由の意味を考えさせられた。
 合掌