“肝っ玉母さん”塩尻末子さんに学ぶ経営の原点

 昨年11月13日の本欄で『一つの会社のあり方:野老(ところ)真理子さんに学ぶ』を書いた。野老さんのことを是非報告したいと思ったのは、タイトルに掲げたように、彼女の経営スタイルから学ぶことが実に多かったからである。彼女が経営する会社は、房総九十九里で不動産管理を中心とした事業を営む大里綜合管理株式会社である。野老さんの経営がユニークなのは、第1に、“本気”で地域貢献活動に取り組んでいること、第2に、社員の子育て支援を通常業務の中で実行していること、第3に、“敢えて”非効率経営を選択していること、等々である。
 そうした脈絡の延長線で先週11日に参加したセミナーから、今回またユニークすぎる女性経営者について報告することとしたい。その経営者の名前は塩尻末子さんと仰り、経営する会社は千葉県で警備事業を展開する(株)エイユウ。この会社では指針として“みんなの会社”ということが掲げられ、「うそをつかない」「約束は必ず守る」が実践される。これだけ見ると何だか小学校の学級会みたいである。しかし塩尻さんの会社ではこのことに“本気”で全社員一丸となって取り組んでいるのである。
 「うそをつかない」「約束は必ず守る」はこれを社員に求めるだけでなく、社長自らにもそれが課せられる。否むしろこれらの約束は社長の負うところがはるかに大きい言った方がよい。塩尻さんの経営者としての原点は、以前勤めていた会社で見た社長の”公私混同””無責任さ”に対する素朴な怒りと反発である。中小企業にありがちなことと理解を示しつつも、会社を私物化して自分たち(経営者および家族)の経費は使い放題である一方、社員にはケチケチねちねち。そして挙句の果ての給料遅配。彼女はこうしたことが絶対に許せなかったと言う。
 そうした経営者を反面教師とする中で、塩尻さんは何をさて置いても「給料遅配はしない」ことを社員に約束する。そのために、彼女は自分の給料をまさかに備えて全額貯金することを励行する(彼女は主婦で、生活費は夫の給料で賄う)。こういうスタンスであるから、経営は全面的にガラス張り。儲け、社長の給料なども社員に公開され、一切秘密としない。ボーナスなどの配分も社員の意見を尊重する。
 中小企業それも零細企業にとりわけありがちなことであるが、塩尻さんの会社の社員は職を転々としてきた者が多く、腰が据わらない上に金銭トラブルを抱える者も少なくなかった。サラ金地獄に嵌り込んだ者がいれば、社長としてはそうした社員への余分な対応を図らねばならなくなる。警備業界では自己破産などしてしまうと、爾後この業界で働くことが出来なくなってしまう。したがって安易に自己破産などを勧めることもできない。対応がより面倒となる。本当のところ、こうした社員は首にしてしまうのが手っ取り早い。だが彼女は決して社員を見捨てない。否むしろ逆に、親身になって相談に応じるのである。本稿のタイトルを“肝っ玉母さん”としたのは、塩尻さんのかような”侠気”に打たれたからにほかならない。
 さらに不祥事を犯した社員に関する情報も、社長一人の胸中に収めるのではなく全社員に公開する。情報を公開する中で他の社員の意見を募るのである。堅く言えばこれは人権に係わる問題であり、取扱いを一歩間違えるととんでもないことになってしまう。大企業でこれをやれば必ず大変な事態を引き起こすことになってしまうであろう。だが彼女は敢えてそれを実行する。私流に解釈すれば、これは“みんなの会社”という彼女自身の哲学に発するものと考えられる。問題が生じればそれをみんなで考え対応するという塩尻さんの信念である。他の社員も大なり小なり経済的苦労をしてきた者が多いこともあって、不祥事を起こした社員を決して排除しようとはしない。むしろみんなで当人を支えようとする方向に進むのである。ここに期せずして共感が生まれ、より結束力が高まることとなる。
 人事管理論の教えに従えば、管理者たる者予め効果を”企んで”行動に臨まなければならないということになるであろう。しかしながら下司の勘繰り。塩尻さんは端からそんなことを企んではいない。彼女としては“みんなの会社”という基本的指針に忠実であるにすぎない。その履行が、企まずして社員の結束を促しているだけのことである。“純粋”経営学徒の先生がたの手にかかれば、こうした塩尻さん独自の経営哲学なども切り刻み合理的な意味の発見に走ることとなろう。そしてそこから原理原則を抽出して法則化し、さらには成功例として横展開し他企業への移植が図られることともなろう。
 しかしながら、そこでの問題点は要素還元法に従って一定の要因らしきものが発見できたとしても、その要素の組合せで塩尻さんの経営が再構成できるか否かということである。冒頭野老真理子さんに触れた。野老さんのケースも結局同じことである。要素還元法に従って一定の要素を抽出できたとして、その単純な組合せだけで彼女の会社を再構成することができるかどうかということである。要するに押しボタン操作の結果として、自動的に会社経営が図られるということではないわけである。お二人の経営からはそのことを学ばなければならない。
 野老さんや塩尻さんの会社は「資本主義社会の会社ではない」と言う人も多いかもしれない。こんな経営は非現実的な素人技との謗りも受けるかもしれない。だが彼女たちの会社は事実として、立派に存在し続けているわけである。何を言っても存在し続けることの意味は大きい。彼女たちの会社では、何よりも社員たちの会社への参加意識や忠誠心が強く、したがってモラルも必然的に高くなる。価値観の違いはあろうが、ウォール街で何億何十億と稼ぐ経営者の下で働く人たちと、彼女たちの会社で働く人たちのどちらが幸せであろうか?
 野老さんも塩尻さんのお二人ともが期せずして異口同音に仰るのは、「会社とは社員は元より、地域の人を含めた関係する人たち全てみんなのもの」ということであり、その前提には「徒に利益絶対主義には走らない」という凛とした志操がある。こうした志操があればこそ、敢えてコンプライアンスやガバナンスなどを声高に叫ばなくても、企業は行くべきところに向かい、そして自ずから収まるところに収まるのである。野老さんや塩尻さんの会社と大企業では勿論仕掛けが異なる。だがわれわれが「会社とは何か」を考える時に、一方で、野老さんや塩尻さんの会社のような行き方があることを忘れてならないことも確かであろう。