天使か、悪魔か:東国原さんの快挙?

 東国原さんがやってくれた。ポピュリズムの権化である東国原さんはどうにも好きになれない。その深層は彼の人間性ということであるかもしれない。テレビに相変わらず出捲くって、「政治家」の顔と「お笑い芸人」の顔を巧妙に使い分け、大衆を翻弄する。こんなワンパターンの「底の浅さ」と「空虚さ」に何時かはみんなが気づき、飽きてしまうだろうと思っていた矢先に、彼はまたやってくれたのである。
 古賀選対委員長の出馬要請に対して、東国原さんは「第一に、自分を総裁候補とすること、第二に、知事会のマニフェストをそのまま自民党マニフェストに採用すること」の二点をを要求した。最初これを耳にした時は、お笑い芸人がまた「一発かましてくれたわい」と軽い気持ちで聞き流していた。自民党の先生がたも実際のところ「まともに受け合うには大人気ない」という反応であったように思う。ところが一転問題は複雑骨折の様相見せ始めたのである。東国原さんが「自分は大真面目だ」と強弁し始めたからである。
 これには当初芸人一流の洒落と受け流していたお歴々も黙ってはいられない。ここまで愚弄されてすっかり堪忍袋の緒が切れた。勢い古賀さんへの憤懣が噴出すこととなる。ただでさえややこしい党内情勢に、また混乱の種が蒔かれてしまった。総選挙を前にして、自民党は致命的な地雷を踏んでしまったのだ。
 東国原さんが一連の混乱を意識して行動に出たのだとすれば、私は彼を見くびっていたのかもしれない。戦慄が走るほどの大変な仕掛け人である。海千山千の先生がたを手玉に取るほどの才覚をどこで身に付けたのだろうか? あるいは持って生まれた才能なのであろうか?
 翻って私が折りに触れて読み返す本にM・スコット・ペック『平気で嘘をつく人たち』がある。これは人間の邪悪な性質を精神医学的に追求したもので、何度読み返してもその度に改めて刺激を受ける。この本でペック先生は“邪悪な人”を構成する要件として「oどんな町にも住んでいる、ごく普通の人 o自分には欠点がないと思い込んでいる o異常に意志が強い o罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する o他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する o体面や世間体のためには人並み以上に努力する o他人に善人だと思われることを強く望む」の7つを挙げている。この要件を全て満たすことはないが、いくつかに当て嵌まれば要注意ということである。
 この項目を見てどう思われるであろう。恐らく政治を生業とする方々には相当当て嵌まる場合が多いと感じられたのではなかろうか? もしかしたらペック先生が言う“邪悪な人間”の性格を持っていなければ、政治家などにはとてもなれないということなのかもしれない。そういう観点から見れば、安倍さん、福田さん、麻生さん、それに鳩山邦夫さんなどはお育ちがよすぎて政治家失格であるのかもしれない。今回は、ヒールのイメージが強い古賀さんだって可愛く見えてしまう。いずれにしても手玉にとられた自民党こそいい面の皮である。ますます政権担当能力のなさを露呈してしまったということであろう。
 政局を克ちぬかなければ、いくら理想に燃えていても何も始まらない。ポピュリズムに走る心持も分からないわけではない。小泉劇場を範とすれば、政局の過程ではプロである芸人・タレントの演技力に倣うことも重要であるかもしれない。問題は、政権奪取の過程でミイラ取りがミイラになってしまうことである。政権奪取で疲れ果ててしまい、所期の理想が雲散霧消してしまう。だからこそ、小泉さんのような強い意志を持った政局の天才がヒーローとして求められるわけだ。
 東国原さんに戻る。東国原さんは強い意思とポピュリズムを巧妙に操る能力において、小泉さんの再来と言えるかもしれない。それを肌で感じたからこそ、古賀さんは柳の下の二匹目のどじょうを狙ったのであろう。
 東国原さんの実像は知らない。だが私は皮膚感覚で彼の危険性を感じる。彼が有能であればあるほど、だから批判するのである。東国原さんの支持率は未だ80%台の後半を維持している。これは檜舞台に踊り出たばかりのヒットラーの支持率とほぼ同水準である。ヒットラーも最初は一泡沫候補にすぎなかった。それが極端に強い意志とポピュリズムの風に乗って、結局は世界史上最悪の災厄をもたらした。世界大恐慌に倦み疲れたドイツ国民の無邪気な選択が発端であった。彼我の状況はそっくりである。瓢箪から駒。取るに足らない存在が一挙に政権を奪取する可能性は確かにある。
 今大ヒット上映中の映画に『天使と悪魔』(原作ダン・ブラウン)がある。ここでは「科学の力で神の存在を証明しようとする」一派と、「伝統の守り手である」バチカンの抗争が基本線として描かれる。「神を科学すること」はパンドラの箱を開けることである。それが天使の行為であるか、悪魔の行為であるかは分からない。しかし確実に言えることは、一旦開けられたパンドラの箱は、それが天使の行為であっても、悪魔の行為であっても、もたらされるのはカオスでしかない。
 東国原さんが天使であるか、悪魔であるかは分からない。しかしヒットラーの教訓に学ぶべくもなく、政治家を天使にするか、悪魔にするかは、「全て」有権者の選択である。現在の極端に危ない政治環境の中では、国民が悪魔の選択をする公算は少なくない。だからポピュリズムを攻撃するのである。