オールド・メディアへの鉄槌とその崩壊

 この国がしゃきっとしないのは、政治とメディアの責任が重い。メディアはしゃあしゃあと政治を批判するが、そのご当人が如何にも腰砕けで意味不明瞭。何を言いたいのか、何をしたいのかさっぱり分からない。
 もうだいぶ日が経ち記憶も薄れてきたが、忘れてならないのは大連立の仕掛け人。お好きな野球で遊んでいるうちはまだ可愛げもあったが、政界の旦那面して顰蹙を買ったのは正に噴飯物であった。老害の最たるものである。しかしながら誰も彼の首に鈴をつける人はいない。政界でも官界でも、他人には難癖をいっぱいつけるくせに、自分の身内となるとからっきし元気がない。世界一の購読部数が泣くというものだ。だからメディアは信用を失う。
 私は口を開けば、ポピュリズムの批判を繰り返している。だがわが大衆も捨てたものではないような気が最近少ししている。草なぎ事件と小沢事件。これらの第一報は、両者ともに完全な悪人扱い。何時もの勧善懲悪スタイル。正義は我(メディア)にあり。
 これに乗ったのか乗せられたのか知らないが、草なぎ事件では、悪乗り大臣が思わず口走った一言が大衆の猛反発を喰らい、選挙にも影響する勢いに。それに恐れをなしたのか、初めの勢いはどこへやら、方向転換して一転草なぎ君にすりすりし出したのはご愛嬌を通り越して、まっこと醜い。
 小沢事件も基本的構図は同じ。秘書逮捕に色めきたったメディアは、何時ものパターンで小沢さんを血祭りに挙げようと、あの手この手を弄した。しかし大衆は踊らなかった。問題は検察の説明責任であるにも拘らず、何時ものごとく大物バッシングさえすれば、大衆は付いてくるという読みが見事大外れ。
 この二つの事件では、大衆は何やらメディアの言うことを鵜呑みにしなくなっている様子が窺われるということだ。草なぎ君はスッポンポンになろうがなるまいが、基本“いい人”。小沢さんは秘書が逮捕されてもされなくても、所詮“悪代官”。それ以上でもそれ以下でもない。メディアの誘導なんぞには、もはや従わないということである。
 草なぎ君は一見落着であるが、小沢さんに関しては鳩山傀儡批判で、性懲りもないステレオタイプのでっち上げ記事。あまりのおぞましさに見出しが、べそっかき。メディアは何を誘導したいのであろうか。こんなお粗末記事で、売上を本当に伸ばせると考えているのであろうか。恥ずかしい限りである。
 こうした体たらくを見るにつけ、つくづくオールド・メディアの時代は終わったのだと思う。オールド・メディアの退潮には、やはりネットの影響が大きい。草なぎ事件に関しても小沢事件に関しても、オールド・メディアの論調とは別に、ネットではご両人の擁護論が根強かった。それが結局オールド・メディアを動かした。
 そうした目で見て、16日の田原総一郎さんの『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)は実に興味深かった。普段辛口でならしている先生方のことごとくが小沢擁護論を展開していた。これは検察批判であったとしても、間接的な小沢擁護論であることに違いはない。
 翻って岡田克也さんは多分真っ直ぐな人なのであろう。好感度が高いのもむべなるかなである。だが政治は清濁併せ呑むのが常道である。高い理想だけでは政治は回らない。清新さが売り物のあのオバマさんだって、腹の底は分からない。あけっぴろげのあっけらかんがよいのであれば、八っあん、熊さんでよい。否、与太郎だってよいであろう。
 民主党の先生方は本当に岡田さんに総理が務まるとお考えになったのであろうか。国民に人気が高いトップを戴けば、自分の選挙にも有利になる。それだけのことではないのか。そんな助平根性であれば、最近の国民は手強い。きっとその魂胆を見抜いてしまう。決して貴方の選挙は安泰とはならないであろう。
 結局国民=大衆は倦んでいる。未曾有の経済危機を前にして、メディアが笛を吹いてもだから大衆は踊らない。「売上・視聴率」命で、大衆の愚弄でしかないステレオ・タイプの報道スタンスはもう通用しない。その本質を理解しないから、紙媒体・電波媒体のメディアは恐慌に陥るのである。オールド・メディアに鉄槌が下ったということだ。
 どこかの新聞社のボスがフィクサー気取りで暗躍しようと思っても、もはや大衆は馬鹿ではない。貴方のお利口ぶった“馬鹿さ”加減にはうんざりしているのだ。そのことに気がつかないから、オールド・メディアは只管崩壊に向かうのである。