団塊の懺悔:しつけを放棄した罪咎

 毎朝の通勤途上。駅へ急ぐ途中で必ず出会うお嬢さんがいる。彼女が気になるは、当然のこと色恋沙汰ではない。その喫煙マナーである。煙草の火の部分を外側に向け、しかも大手を振って歩くのだ。早朝のこと故、小さな子供があまりいないのでまだしも、これが幼児が多く集う場所や時間帯であったら如何であろう。危険極まりない行為である。
 私が喫煙していたその昔。歩行中の喫煙マナーとしては、点火部分を内側に向けて手の平で覆ったものである。話題にしているお嬢さんは外見的には全く普通の娘さんである。普通という意味は、それなりの常識を備えているように見えるということである。歩行中の喫煙の良し悪しは別としても、彼女はきっちりとした(?)喫煙マナーを学ぶ機会を持たなかったのであろう。
 そのお嬢さんは私の娘の世代である。彼女がマナーを身に付けていないのは、親である私の世代の責任と言ってよい。われわれの世代ほど伝統を受け継がず、またそれを後代に伝えなかった世代はいないであろう。
 われわれの祖父母の世代は戦前を引きづり、大袈裟に言えば、儒教的雰囲気を芬々とさせていた。寝物語では、「親孝行の話」「正直者の話」「正義の士の話」などが頻繁に語られた。日常の挙措でも、「食べ物を残してはいけないこと」「弱い者を虐めてはいけないこと」「お年寄りは大事にしなければいけないこと」等々が教え込まれた。
 だがそうした教育を受けて育ったわれわれの父母の世代は、戦後価値観の一新のせいか、あるいは自信喪失のせいか、敢えて積極的に、その雰囲気を自らの息子や娘(すなわちわれわれの世代)に伝えることを行って来なかった。われわれは父母から教わることは少なかった。だがわれわれの世代は、祖父母を通じて心の片隅にではあっても、伝統的な価値観を受け継いでいる。
 一方われわれは、それを自らの世代に伝えることを放棄した。私たちの世代は、第二次安保闘争あるいは全共闘の世代でもある。造反有理を旗印に、旧体制・旧秩序に抗った。あるいはそういう気持ちで時代を共有して来た。身近な旧体制のシンボルであった教師にゲバ棒を突きつけることによって、旧秩序の欺瞞性を暴き、時代を突き抜けることが出来たと考えた。
 そうした立場からは、旧秩序に一抹の美しさを感じても、口が裂けてもそれを是とすることは出来なかった。完全な自己分裂である。われわれ団塊の世代にとって不幸であったのは、社会人となって1970〜80年代の20年間が、わが国が覇者として世界経済に君臨した時代と重なることである。
 この20年間にわれわれには、成功体験のみがしっかりと刷り込みされてしまった。例え何かがおかしいと感じても、打つ手打つ手で成功し、追いつけ追い越せのアメリカをある面凌駕してしまったのであるから、敢えて反省することなどはない。そうした時代の中では、旧習芬々たる“よき”伝統なるものは封印されざるを得なかった。
 昔犯罪は貧しさ故に引き起こされるものが多かった。したがって犯罪の中にも道徳は生きていた。だが最近の犯罪は道徳の欠片も見えないものが極めて多くなっている。これはそれが全てではないにせよ、われわれの世代が花見酒に酔うだけで、その責務をきちんと果たさなかった咎が大きい、と私は思う。犯した罪科を懺悔しても、後の祭りである。まっこと慙愧に耐えない。
 このことをあまり言うと言い訳がましくなってしまうが、われわれが担って来た時代の経済思想的バックボーンとして、新古典派経済学の考え方があったことが指摘されてよいであろう。新古典派は価値判断を放棄し、極力数式モデルに依存する経済学として知られる。
 そうした新古典派の性格から、価値判断などという非科学的要因がすっかり排除され、市場で決定される結果が何よりも優先される。また経済現象は、須らく数式で表わされるものでなければならないという信念の下、数学的論理展開がここでも何よりも優先される。
 そして市場が決めた“正しい”結果として、例え貧富の格差が極端に拡大したとしてもそれは是とされることとなる。数学が最上級の論理言語であることは間違いない。だが演繹手段の精緻化を図る一方で、作られたモデルの説明性が問われることは少ない。モデルと数字だけが一人歩きしてしまうのである。
 またこうした背景の中で、その実務的伝道師役を果たしたのはMBAホルダーであった。ミンツバーグ『MBAが会社を滅ぼす』では、マネジメントに必要な要素としてクラフト、アーツ、サイエンスの3つが挙げられる。問われるのは、クラフトでは「経験→実務性」であり、アートでは「創造性→直感・ビジョン」であり、サイエンスでは「分析・評価→秩序」ということである。
 実務経験者ならよくお分かりであろうが、「経験」「直感」は学校で教えることなどとても出来ない代物である。学校で教えることが出来るのはひとり「サイエンス」に止まる。サイエンスはすなわち科学である。したがってここで使われる言葉は、数学が最重視されなければならない。新古典派の伝道師役に例えたのは、このコンテクストにおいてである。
 新古典派とMBAの合体が、われわれ団塊が駆け抜けた時代の大きなバックボーンであった。ここでは道徳を論じうるる隙間がない。だからわれわれの心の中にいくら伝統的道徳の名残火を灯し続けていても、それが主導権を握る環境にはなかった。
 しかしながら経済思想においては、新古典派=MBA共同体が決して唯一無二の存在ではない。必要以上に市場機能が重要視される中にあって忘れがちであるが、スミスにしてもケインズにしても、経済学は“道徳”科学であった。道徳が何ものかという議論はあるが、市場で決められたことも道徳に照らして非とされるものであれば、それは最適決定ではないということである。そのことが、われわれの思考回路からはすっぽりと抜け落ちていた。
 翻って昨秋の世界金融危機の勃発以来、市場で決定されるものが最上・最適でないことが詳らかになったわけである。ある意味新古典派の呪縛に雁字搦めになっていた、われわれ団塊の世代も、ここでやっとその呪縛から解放されたのである。このチャンスを逃せば、われわれ団塊は終生汚名挽回の機会を失うこととなる。
 伝統的道徳をわが子の世代に伝えなかったことは、われわれの世代の失敗である。われわれの道徳は封建制の異物であるとされ、心情的に意識的に忌避されて来た。しかし良し悪しは別にして、道徳は国レベル、企業レベル、家族レベル、個人レベルのありとあらゆるレベルにおいて必要なものである。道徳の前提がなければ、われわれは一刻たりとも社会生活を営むことが出来ない。
 道徳と言えばやや堅くなってしまうかもしれないが、これは社会に生きるわれわれが最低限果たすべき規範にすぎない。嘘をついてはいけない、必要以上にものを欲しがってはいけない、弱い者虐めしてはいけない。その程度の話である。
 一世を風靡したグローバルスタンダードは、もはやアメリカンスタンダードであったことは明らかである。それも、自らの立場や商取引上のアドバンテージを得るために作られた虚構、大ペテンであった。ジャスティス(=公正)を最大のセールスポイントとする国の実体も、こんなものである。グロバルスタンダードの構築などは、端から出来ない相談であった。
 ただそれでも、なおグローバルスタンダードを追求するのだとすれば、宗教・民族・老若男女を超えて一致させることの出来る最低限の道徳こそが、そのことであるかもしれない。世界金融危機の元凶がグリード(=強欲)であったとすれば、グリードの排除などは優先的にスタンダードとされて然るべき事項であろう。
 われわれは伝統的道徳を軽く扱い過ぎて来た。そのことが、われわれの孫・子の社会をモラルレスにしてしまった。われわれ団塊の世代は、モラルレス社会の形成に大きな影響を与えて来た。そのことを恥じるのは無論のこととして、現下の世界的経済危機はむしろ千載一隅のチャンスである。今こそ老骨に鞭打って、孫・子の代に伝えるべきことを伝えなければならない。そして伝統に裏打ちされた日本人の正義とは何であるかを、われわれは若い世代と一緒に考えなければならないのである。