東国原知事のテレビ出演は問題ないのか?

 2008年の東国原英夫さんの公務外収入は約3000万円、そのうち40%がテレビ出演料と講演料だそうである。タレントとして見れば確かに少ない収入かもしれない。だがこれは、公務を縫っての稼ぎである。ご当人言わく「公務外で稼いだ収入で税金を払い、それが知事報酬に化け、結果として、(知事報酬で)県財政に負担をかけていない」のだとか。素晴らしい理屈である。どこまでも頭の回る方で、つくづく感服してしまう。支持率90%も宜べなるかなである。
 特別職公務員は、たとえば一般職公務員が「9時5時」の勤務であっても、そのルールには制約されない。正に特別の扱いである。地方で見ていると知事さんは、土日休日にも様々な行事に借り出されることが多く、実に多忙である。その限りで、特別扱いしなければならない事情は認められる。
 わが東国原知事は、土日にはテレビに出まくりである。いや土日どころか平日の番組にも、印象として数多く出ていらっしゃる。それもこれも全て、宮崎県のPRのためということであるが、ギャラはご自分のポケット。さらに東国原さんは、3月27日に東京プリンスホテルで、宮崎県知事として初めて県外での政治資金パーティーを催されたとのことである。集めた金額については情報が複数あって定かではないが、1人1万円で1000人の出席者を集めたとすれば、総計1000万円。なおこうした資金パーティーは、知事就任以来これで17回目を数えるのだそうである。
 ギャラ収入も、パーティー収入も「事務所の維持に必要」と説明される。しかし県知事が、個人事務所を常時構えること自体異例であるわけだ。東国原さんは実際のところ、何を考えておられるのであろうか。この方へは玉不足の自民党から盛んに秋波が送られ、ご当人も国政への転進については意欲満々ということのようである。東京での資金パーティーなども、そのための布石と考えれば得心がいく。
 翻って東国原さんが国政に転進することを前提として、(宮崎県PRの名を借りて)テレビに出まくっているのだとすれば、それは公職選挙法で謳う「事前運動」の禁止には当たらないのであろうか。仮に”私”が東国原さんの対抗馬として選挙に出るようなことがあれば、私は有権者に対して、まず「彼の行為は事前運動に当たるのでは?」との懸念を訴えることから始めたい。私という”無名”の候補者にとっては、彼が国政選挙に出ることを前提として、予めテレビに出まくっていたのであれば、戦う前からハンディを負っていることは明らかである。少なくとも、私という候補者にとっては甚だしく公平性を欠く行為と言わざるをえない。
 公職選挙法が事前運動を禁止するのは、各候補者の選挙運動を同時にスタートさせることによって無用の混乱を回避し、同時に選挙費用の増加を抑制し、おカネのかからない選挙を目指すということが、その立法の趣旨である。なお、どういう行為が事前運動に当たるかについては、その行為のなされる「時期・場所・方法」について、総合的な判断を要するということであり、実際の適用に当たっては解釈の範囲が広すぎる。したがって私などがいくらがなり立てても、多勢に無勢となる可能性の強いことは予め想像される。
 またこのことは、出演するご当人以上にテレビメディアの責任である面も大きいと言えよう。特定の立候補「予定者」(公然とした立候補表明がなくても)を視聴率稼ぎのためにテレビに引っ張り出し、悪意ではないにしても、結果的にその名前を連呼する。これは、公職選挙法の趣旨に反するものではないのだろうか。
 テレビメディアが言うとおりの、社会正義を追求する公器としての自覚を本当に持っているのであれば、今からでも遅くない。こうした懸念の払拭に真正面から取り組んで欲しい。いずれにしても、マスコミ=メディアは第四権力である。そのことの意味を真摯に考え、よくよく正しい行動をとることを期待したい。
 政治家先生は法に触れなければよしとする場合が多い。だが真のコンプライアンスは立法の趣旨にまで遡り、それを忖度するところから始まるものである。現代の企業人であればこれは常識中の常識である。森田健作・千葉県知事なども同類であるが、コンプライアンスの意味を真底に理解しないような人物に、われわれは、われわれの未来を託すことは出来ない。
 東国原さんが私がここで書いたことなどは、お前の勝手な戯言だと仰るのであれば、少なくとも来る総選挙には出馬しないことを、宮崎県民あるいは国民に向かって宣言するべきであろう。それがステーツマンとしての矜持であるはずだ。
 それにしても私には宮崎県民の心がよく分からない。県知事は単に経済効果をもたらす存在であってよいものであろうか。4月10日の本欄で、関西大学大学院教授の宮本勝浩さんが、「東国原知事の経済効果は500〜1000億円」と推計されていることについて触れた。推計の根拠はよく知らないが、この金額は宮崎県の県民所得や人口から見ると、俄かには信じがたい実に過大な数字である。東国原人気はこうした無邪気な後押しで、否が応でも盛り上がる。
 一方片山善博慶應大学教授(元鳥取県知事)からは、東国原さんの行動がルールとして許される範囲であったとしても、「あれだけ県庁を留守にしていれば、勢い「官僚支配」が跋扈する」との懸念が示される。「亭主元気で留守がよい」ということがある。留守を守るお役人にすれば、”五月蝿い”トップなど不在であればあるほど好ましい(お役人に限らず、上司不在が部下にとって至福の時間であることは、組織社会の常識であろう)。当然のことながら、知事職は単なる営業マンではない。県政において知事には、きっちりとしたマネージャーとしての役割こそが求められる。
 経営はバランスである。経営者はそれに至るフィールドが営業畑であるにせよ、技術畑であるにせよ、最終的にはゼネラリストの能力が求められる。ゼネラリストはバランサーである。営業などの一つのフィールドに偏りすぎる会社はうまく機能しない。宮崎県は知事の行動を見る限り、その懸念が大きいということである。
 なお東国原さんのこれまでの行状は本当のところ必ずしも芳しくない。第一に、講談社襲撃事件(1986年)での現行犯逮捕。第二に、児童福祉法等違反に関する事情聴取(1998年)、第三に、後輩タレントに対する暴行容疑(1999年)。これらは贈収賄罪と並ぶ立派な「破廉恥」罪である。禊が済んでいるとか、微罪であるとかに拘りなく、犯した罪は罪である。宮崎県民は本当にそれでよいのであろうか。
 東国原さんが国政に転進するとした場合、宮崎県民は踏んだり蹴ったりではないのか。「どげにゃせんいかん」と言ったその舌の根も乾かないうちに、「はいサヨナラ」(宮崎から立候補したとしても)で、それでよいのか。宮崎の県民性はお人よしであると言われる。お人よしの”性(さが)”を利用するのは犬畜生以下である。
 一般論であるが、アドルフ・ヒットラーにしても、小泉純一郎さんにしても、高すぎる支持率は何かおかしい。社会心理的に何らかのマジックが働いているからこそ、こうした高い支持率が記録されるのであろう。その末路は、ヒットラーにしても、小泉さんにしても周知のとおりである。現在の経済状況を打破するのは、小手先の経済政策ではない。今求められるのは政治における真のリーダーシップである。救い主としての”選良”をわれわれはなぜ選び出すことが出来ないのだろうか。