草なぎ騒動について思うこと(再論)

 草なぎ騒動が事件(?)の瑣末性に比して、予想以上に大事(おおごと)になってしまったことに関して、24日の本欄で3つの点を指摘した。第一が、警察官の逮捕・家宅捜査、第二が、鳩山総務大臣の「最低な人間」発言、第三が、マスコミの盲動ということであった。舌足らずの面もあったので、補完的に改めてこの3点について触れることとしたい。
 第一は、なぜトラ箱ではなく、逮捕→留置となってしまったのかということである。トラ箱というのは、「警察官職務執行法」第3条第1項、及び「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」第3条第1項に基づいて警察署内に設置される施設である。ここには手の付けられない酔っ払いが「保護」を目的に、一時的に収容される。
 草なぎ君のケースでは、“公然わいせつ”罪で緊急逮捕されてしまったわけであるが、局部をさらけ出したり、警察官に暴言を吐くなどは当たり前であるのが、多分正体不明となった酔っ払いの性(さが)であろう。つまりは草なぎ君が全裸で暴言を吐いたとしても、酔っ払いの対応に慣れた警察官にとっては日常茶飯事の世界ということではないのか。
 にも拘らず、今回いきなり逮捕となったのは、何か格別の理由があるのであろう。これは巷間言われているように、逮捕→留置→家宅捜索と間髪を入れずに素早い行動をとったのは、あわよくば薬物使用を摘発したかったということではないのであろうか。有名タレントを薬物使用で捕まえれば警察の勲章である。摘発した警察官は大手柄である。
 前記の2法は飽くまでも、酔っ払いの「保護」を第一義としているわけである。通常で考えれば、保護→(新たな容疑が固まった時点で)逮捕→勾留ということではないのか。小沢問題でもそうなのだが、検察・警察の一部が自らの功名心のために法を執行することがあるとすれば、それこそ大問題である。もしこれが私の妄想であると言うのならば、ここで書いた観点に対して警察はきっちり説明する必要があると思う。
 第二について、鳩山大臣個人のことは24日に比較的詳しく書いた。ここではその背景として、大臣に対して、総務官僚の入知恵・囁きがあったのかなかったのかという観点から考えてみたい。今行政改革が進められる中で、最優先で決着を図らなければならないのは、政治家と官僚の関係性及びその距離感の改善である。
 これは要するに、(自民党の)政治家先生が官僚に依存しすぎるために、骨抜きにされ、かつ上下関係が逆転してしまい、政治に多くの混乱がもたらされていることの改善が図られなければならないということである。こうした関係性を通じて、自らの無謬性を信じて疑わない(?)官僚諸氏は、自らの責任を認める代わりに子飼い(?)の政治家を矢面に立て、自らの責任逃れを図る。
 私が知りたいのは、今回の鳩山発言は純粋に個人的な憤懣の発露であったのかどうか、裏を返せば、総務官僚のけし掛けがあったのかなかったのかということである。「地デジ」のイメージキャラクターを選んだのは官僚であろうし、草なぎ君が扱ければ自らに火の粉が降りかかる。責任の所在を不詳・不問にするためには、草なぎ君には徹底的に悪者になってもらう必要がある。
 鳩山大臣はその走狗とされたということではないのだろうか。結局鳩山発言は総じて「稚戯にも劣る行為」とされ、大いに男を下げた。来るべき選挙に影響が出なければと祈るばかりである。鳩山大臣の真の敵は草なぎ君ではなく、身内の官僚ということなのかもしれない。官僚怖るべしである。大臣は自らの不明を恥じるのは無論のこととして、発言に関する責任の所在をはっきりした上で、ここにも国民に向けて説明する義務があるものと思われる。
 第三は、メディアの無定見・節操のなさが糾弾されなければならないということである。今回個人的に面白かったのは、何となく知っている(と思っている)人間で、かつよいイメージを抱いている(それが幻想であっても)人間に対する攻撃は、いくらメディアが誘導しても多くの国民がやすやすとはそれには乗らず、極めて真っ当な判断を示すということである。
 小沢問題に関してもこれまでとは異なり、「メディア批判→辞職」のパターンが崩れた。ことの善し悪しは別にして、メディアにたとえ叩かれても、主張すべき点を主張すれば国民が冷静な判断を示すことが証明されたのである。わが国民もなかなか捨てたものではないということである。
 多くのメディアは、本当にけしからないところが多い。兎に角話題性(=視聴率、購読部数)だけをメルクマークとして、先ほどまで持ち上げていた人物でも、何か起きるとすぐに梯子段を外し、ろくに言い分もきかずに徹底的に悪人に仕立て上げてしまう。昨日までの好人物が今日はなぜ悪人になってしまうのか。人格が一夜にして変わることはありえない。もしその人物が本当に悪人であったのだとすれば、それはメディアが騙されていたということであろう。
 こうした事象に対して、メディアがしっかりと総括し、謝るところは誤り、正すべきところを正した例をあまり知らない。米国ではあのメディアの雄NYタイムスでさえ経営不振に喘ぎ、何時倒産してもおかしくない状況に立たされている。クォリティーを誇るNYタイムスにおいても経営不振を託つのがメディアの現状であるとすれば、イエロー・ジャーナリズムなど風前の灯であるはずだ。
 草なぎケースは実に取るに足らない話題である。それが警察・政官界・メディアという権力の本質を炙り出し、三者三様に極めて無様な姿を晒した点は、怒りを超えて笑ってしまう。今回のケースでもっとも大きな教訓は、われわれ国民がしっかりと問題の本質を見失わなければ、権力の思うとおりに必ずしもことが運ばないということである。