経済対策:孫・子に借金の山で本当によいのか?

 前二回(4月15・16日)の本欄では、私なりの追加経済対策の評価を披露した。そこでは不充分かもしれないが、一連の対策の結果が借金の山を孫・子の代に残す可能性を指摘した。
 こうした懸念は勿論私だけではなく、少なからぬ心ある識者が等しく表明しているところである。例えば伊東光晴先生などは、2006年に啓蒙書として『日本経済を問う−誤った理論は間違った政策を導く−』(11月,岩波書店)、その理論的背景議論の書として『現代に生きるケインズ−モラル・サイエンスとしての経済理論−』(5月,岩波新書)の二冊を世に問うておられる。
 この中で伊東先生は経済政策について、前書のサブタイトルである「間違った理論が間違った政策を導き、その結果として、膨大な借金の山だけが残ってしまう」構図を提示される。
 P・サミュエルソンらのアメリカ・ケインジアンは、財政支出に対する”過大な”期待を醸成させた。財政支出自体が“直接的な”乗数効果を持ち、したがって、その乗数分だけ有効需要を産み出すことを論じる。しかし伊東先生はこれを言下に否定されるのだ。
 伊東先生によれば、ケインズ財政支出に期待するのは飽くまでも「呼び水効果(=pumping effect)であって、決してその直接的な「乗数」効果ではないということだ。呼び水というのは、井戸から水が出ない時にそこに水を注ぐことによって、水が上がるようにしようと図る工夫である。
 政策で言えば、赤字財政政策を採用し財政支出の増加を図る中で、消費や投資を刺激し、その刺激が新たな経済成長の原動力となるように図ることである。そしてその大前提として、財政支出の増加によって、消費や投資が刺激される環境がまず整っていることが求められる。
 再度伊東先生によれば、中山伊知郎先生は経済発展(=成長)を議論する場合に、シュンペーターの「新結合=イノベーション」の考え方とケインズの「消費(貯蓄)性向」考え方の両者の結合を図ることが重要と、考えておられたということである。
 新しい機軸が企業家の革新的行動−新しい技術、新しい経営組織、新しい商品、新しい市場−によってもたらされたとして、そうした動きが定着し安定化するためには、消費者の消費(貯蓄)動向が重要ということである。刺激のないところ経済発展(=成長)はないということであろう。
 私が前二回に亘って追加経済対策を批判し、財政支出を徒に増加させる前に、今後の国としての大きな方向性=指針を示し、新たな経済システム構想の策定を急がなければならないとしたのは、そうしたコンテクストの中のことである。
 これは極めて単純な話である。例えば、定額給付金を貰って単純にそれを国民全員が使ったとしても、その乗数は“1”でしかない。定額給付金が政策効果を挙げるためには、それが呼び水となって、新たな消費や投資が誘発され、結果的に乗数が大きく“1”を超える状態とならなければならない。
 定額給付金は政府からの予期しないボーナスであり、国民がそれを使うことに躊躇しないとしても、それだけでは政策的な意味は無意味ということだ。次から次へ消費が消費を呼び、投資が投資を呼ぶためには、将来の不確実性が除去されていなければならない。だが現実は全く真逆である。こんな環境でいくら財政支出を増やしたとしても、それは砂地に水を撒くようなものである。貪欲に飲み込んでしまうだけで、地表面は少しも潤わない。
 百年に一度の危機の大合唱にすっかり“浮かれ”て、後先を考えない。経済発展にもっとも大事な「不確実性の払拭」(=新しいビジョンの策定・新たな制度の設計)に少しも努力を払わず、加えて、とても消化しきれない空虚な支出項目を羅列するだけの政治はやはりおかしい。
 それでも早晩死に絶えるわれわれの世代はよい。だが借金づくしの負の遺産しか残されないわが子・わが孫たちはどうしたらよいのであろうか。個人ベースであれば、負の遺産は相続しなければよい。だが国ベースではそうは行かない。わが子孫に残された途は、もはや国を捨て去ることでしかないのかもしれない。