追加経済対策、私の評価は”0”点(下)

(承前)
 第二の実行への道筋。逆に言えば予算の消化ということであるが、これまでにもこれほど大型の対策でなくても、政策実行・予算消化においては主として事務手続面から隘路が出来、その効果が著しく削がれる傾向が多々見られた。しかしこのことは何時の間にか有耶無耶のうちに闇の彼方に流れ去り、結局、格別に問題視されることは少なかった。
 こうした懸念に関する前駆症状は定額給付金の実施において、既に見られているわけである。折角対策を打ち出しても、それがただ出しっ放しでは限られた陣容(=人員)を前にして、必ずや隘路が生じる。
 典型例は公共工事の発注である。公共工事への期待が漸次低減する中で、昨今あまり取り沙汰されることがなくなったが、その執行に関する大きな問題の1つは、「上半期契約率」である。
 当該年度の公共工事を促進型とするか、抑制型とするかは、その上半期契約率によってコントロールされる。上期契約率は65〜70%がニュートラルゾーンとされ、それを上回れば促進型、下回れば抑制型となる。今回はその目標を過去最高の80%とするということである。だが過去においては政府の方針はそれとして、実際の事務処理に際して結構渋滞が生じ、なかなか思うように処理が進まなかったわけである。
 それから金融。緊急保証枠10兆円の追加を始めとして、今回は定番の中小企業向け対策のほかに、中堅・大企業向けにも手厚い対応が図られることとなった。言うまでもなく、金融はおカネをばら撒き与えることではない。
 金融ベースという言葉があるが、金融においてはどんな場合にも、必要資金の使途・金額の見極めと、返済可能性の検討が必ず必要である。審査に要する時間が必ず必要ということである。審査に要する時間は、審査担当職員の「数」とその「スキル」に依存する。担当職員の促成栽培が不可能であるとするならば、審査事務は、勢い現行職員の数に制約されることとなる。
 政策の掛け声はよいのであるが、総じて事務処理についてはすっかり忘れられていることが多い。従来から政治サイドやお役所サイドの掛け声が大きい割に、なかなか思うように数字面の実績があがらないのは、こうした理由が大きいからである。言葉を換えれば、ロジスティックス能力が不充分ということであろう。
 公共工事や金融に限らず、政策の実行には事務処理・手続きが不可欠である。戦前の日本軍が兵站の役割を過小に評価しすぎて、失敗を重ねた事例は今日の大きな教訓となっている。近代戦のみならず、古代ローマにおいても当時から既に、兵站が重視されていたことは有名な話である。戦争と政策の実行を同じように扱えないかもしれない。だが、どちらも兵站が重要である点においては同列である。
 繰り返しになるが、予算の執行や政策の実施においては、本来的にPERT法的な考え方の下に、スムーズな展開を図る必要性が求められる。計画を単に立てただけでよしとし、事務処理要員・手順等の実行手段が予め細かく用意されないのであれば、所期の政策効果などはとても期待出来ないということである。
 第三は、国債増発が引き起こす財政・金融上の問題である。財政政策の発動が許されるのは、いかなる危機の下にあっても、投下した支出以上に将来的な税収が見込める場合でしかない。言葉を換えれば、これは財政乗数が“1”以上でなければならないということである。
 財政乗数については、たとえば、ケインズ理論に基づく計量モデルでシミュレーションを行えば、“1.6”というような大きな効果が弾かれたりする。しかし、これは飽くまでも一定の理論モデルに従った結果にすぎない。ベースとする理論が異なれば、また異なる結果が導かれる。最近の研究では、財政乗数は“1”を下回るとされることも多いのである。つまりは財政政策にもはや、景気浮揚効果は期待されないということである。
 そうした面倒臭い議論は兎も角として、単純に考えれば、赤字財政すなわち赤字国債発行が許されるのは、将来的に赤字国債の発行が不要となる姿が見通される場合のみであるということだ。因みに、90年代以降の失われた10年あるいは15年と言われる時代以降今日に至るまで、赤字国債の発行残高が増え続けていることは周知のところであろう。
 翻って今回私の恐怖心を一層煽るのは、今年度の国債発行額が40兆円を超えることがほぼ確実となり、場合によっては、国債発行額と税収とが逆転してしまう可能性が現実問題となって来たことである。
 先般共和党の大統領候補としてオバマさんと戦った、ジョン・マケイン上院議員は「大きな政府を作ること(財政政策の発動)は景気回復には役に立たず、単に将来世代に負担を押し付ける“世代間の窃盗”にすぎない」と仰る。この暗い予見はかなりの確度で的中するものと思う。われわれは早晩死に絶えるとしても、われわれの孫・子は確実にその桎梏に悩み苦しみ続ける。こんな社会で誰が子供を産み、育もうとするであろうか? これも大きな矛盾である。
 次いで国債の当て嵌め先も心配である。またこれだけ巨額の発行がされれば、クラウディング・アウトも確実に問題となって来る。これまで国債を発行し続けて来ても、1500兆円という巨額の個人貯蓄があったればこそ、何とか凌ぐことが出来た。それは言うまでも無く、われわれが年々の収入からこつこつと豆に積み立てて来た賜物である。高い貯蓄率がその源泉であった。
 仮に個人(家計)所得を300兆円とすれば、単純に、貯蓄率が20%の時に60兆円、10%の時に30兆円の新たなニューマネーとしての貯蓄が発生する。だが最近のわが国の貯蓄率は限りなくゼロに近い。と言うことは、年々のフローから生じる貯蓄は期待出来ないということである。とすれば何が原資となるのか? 海外からの資金調達を無視すれば、それは「既存」の貯蓄以外には考えられない。
 なお現実問題として、現在既に存在する貯蓄は必ず何かで運用されている。したがってニューマネーの供給に乏しい中で、新たな国債発行に対応するためには、その運用先が国債に振り替えられなければならないわけである。もっと平たく言おう。たとえば銀行なら銀行において、新しい預金が獲得出来ないとすれば、国債を購入するために、銀行は、現在市中に貸し出しているおカネを回収しなければならなくなるということである。
 一方で、国債を原資として企業の資金繰りを支援すると言いながら、他方で、貸し剥がしの生ずる可能性が高じるのだとすれば、何をか言わんやである。これは正しく、クラウディング・アウトである。クラウディング・アウトとは、国債発行が民間の資金調達を締め出してしまうことである。
 クラウディング・アウトが生じると、民間での資金調達が阻害されると同時に、金利上昇の可能性も高じる。私は基本的には金利はもっと上昇した方がよいと考えている。その場合の問題は、政府にその予見と覚悟があるかどうかということである。新しい観点で、金利上昇下の経済運営策を練り直さなければ、金利上昇にわが国経済は多分耐えられない。そのことももって銘記しなければならない。そうした議論が如何にも足りない。
 昨年夏以降の今回を含めて4回に亘る経済対策に胡散臭さを感じ、その効果を認めがたいのは、基本的に政策が選挙対策化されているからでもある。国債収入と税金収入が逆転するかもしれないという未曾有の財政危機に際して、こんな馬鹿げた政策を打ち出すのは、とても尋常とは思えないのである。
 以上舌足らずではあるが、私なりの追加経済対策の評価を披瀝した。冒頭述べたように不思議なのは、今回の対策に高い評価を下す向きが予想外に多いことである。そうした学者・評論家の先生方は本当の危機をどこまで理解されているのであろうか? かく言う私も褒められた立場ではないかもしれない。だがこれまでの経験と無い知恵を絞って、私なりに一生懸命考えている。
 これまで政府・与党の批判ばかりして来た。だが基本的には、民主党も同じ穴の狢である。人気取りに走って、財政出動自民党以上に拡大させるのだという。民主党も全く分かっていない。真に二大政党を目指すのであれば、マケインさんのように、真反対の議論を戦わせることが必要である。民主党はなぜそれを出来ないのであろうか?
 二大政党になっても、こんなに選択の幅が小さいのであれば、国民にとってはどっちでも同じことである。だからますます政治離れが進み、ついついスキャンダルに目が行ってしまう。今、民主党に求められるのは選挙目当てでない、正真正銘の正直な議論である。
 いずれにしても、後世の経済史家が現代を振り返った場合、麻生さん、与謝野さんを筆頭に政策立案者の悉くは、厳しく断罪されることであろう。気が重くなるが、少なくともそれだけは確かな確信がある。