追加経済対策、私の評価は“0”点(上)

 13日朝のフジのめざましテレビに、3人の経済評論家の先生が登場して、10日に決定された追加経済対策について採点されていた。結果は、85点、80点、55点というものである。これらの先生方について私はよく存じ上げないが、彼らは、今回の対策を真面目にそう評価するのであろうか? 私の評価は”0”点である。否それどころかマイナス点と、三人の先生方とは全く見解が分かれる。
 その理由は大きく3つある。第一が、将来に亘る基本的な方向性が一向に見えて来ないことである。第二が、こうした巨大な財政出動を図っても、その実行への道筋が全く示されていないことである。第三が、国債増発に係る問題とその金融的インパクトについて検討した様子が窺われないことである。
 第一は、先の金融サミットで独仏が積極財政政策に反対し、金融システムの再構築こそ優先させるべき課題としたことと関連する。要するにこれは、各国政府が大なり小なり財政問題を抱え、またそうした効果の有効性が疑問視される中で、真に実効性のある財政出動が図られるか否かということである。
 3月の日経新聞「経済教室」では、『財政政策を問う』というシリーズが組まれ、井堀利宏・東京大学教授(25日)、田近栄治・一橋大学教授(26日)、谷内満・早稲田大学教授がそれぞれ自説を展開されていた。こうした中、お三方が異口同音に主張されたのは、「積極財政の効果は限定的、支援の対象絞れ」(井堀)、「財政出動焦るより税・社会保険負担見直せ」(田近)、「政府による短期での景気浮揚には限界」(谷内)と、いずれもが財政政策の効果に多くを期待出来ないとするものであった。
 90年代にわが国は相当思い切った財政出動を図った。しかし、芳しい成果は得られなかったとするのが定説である。三人の先生方は、こうした事実を踏まえる中で、理論的検討の結果として上記の結論を下されている。と言うことであれば、いくら百年に一度の亡霊の影に怯えているのだとしても、多くが効果を否定する政策に巨額の税金を注ぎ込むことを、愚行と言わずに何と言うのであろうか?
 こうなったらいっそ俎板の鯉である。ジタバタして傷口を広げるよりは、百年に一度の危機なるものを逆手にとって、今後の百年の計を考えた方が得策と言えるのではなかろうか? 金融サミットにおいて仏独が主張したことも、そういう文脈の中でのことであろう。効果の期待出来ない財政政策に過剰な期待をかけるよりは、遠回りになるかもしれないが、ここでじっくりと新しいシステム作りをした方が先行きの展望が開けるということである。
 今回の経済対策の中身を見ると、言葉がそのまま当たるかどうか分からないが、呉越同舟あるいは同床異夢の感を強くする。基本的な哲学(わが国が進むべき基本的方向性)が定まらないから、個々の政策間に統一感・整合性が全く見られなくなっている。要するに本質的な政策が不在ということだ。小手先の政策もどきは、「百害あって一利なし」であることに為政者は早く気がつくべきである。
 たとえば環境問題を考える場合に、昨年来のエネルギー価格の高騰、若者の自動車離れ、家電の売上げ不振などを、どうして千載一遇のチャンスと捉えないのであろうか? エコカーであっても、省エネ家電であっても、それらを作れば環境負荷は高まる。本質論に遡れば作らないのが一番よい。
 究極の環境対策は、極力モノ作りに依存しないで、消費の満足度を高める方法を考えることである。これは格別難しいことではないであろう。モノを大事にかつ長く使うことなどはその策の1つである。欧米では、百年住宅がざらであるし、家具や食器もお祖母さんやお母さんから伝えられるものが少なくない。
 こうした経済では年々のGDPは低くなるが、それで測ることの出来ない実質的な生活水準は見かけ以上にはるかに高い。GDP水準でわれわれに劣るイタリア人の方が、平均的には、われわれ日本人よりかなり快適な生活をしているように思えてならない。
 また少子化対策。わが国の人口が減ることについて、われわれは全員が危機感を感じているのであろうか? この狭い国土を前提とすれば、1億3千万人の人口は多すぎるという考え方があってもおかしくない。そうした基本的方向性を充分に議論しない中で、徒に少子化対策に走るのは何か変だ。
 国民が子供を作らなくなっているのも、この国に希望を持てなくなっているということであれば、これも国民の賢明な選択である。したがってこうした根本的な問題が解決されなければ、予算を厚くしても、制度を整えても、子供の数は絶対に増えない。
 少子化国民の選択である。いずれにしても、庶民の閨房に手を突っ込むような政策は愚作中の愚作である。カネや太鼓で子作りを煽る政治家先生やお役人は破廉恥の窮みであることに、なぜお気づきにならないのであろうか?
 可愛いお顔に似ず大胆に、率先垂範して子作りに邁進される小渕優子少子化対策担当大臣なども、一歩間違えば大赤面ものである。見掛けよりはるかにナイーブであったお父様(小渕元首相)は、草葉の陰でさぞかし厳ついお顔を朱に染めておられることであろう。
 為政者の仕事は、決して国民の選択に棹さすことではない。少子化の進行につれて、現在の社会制度が崩壊するというのであれば、新しい社会制度の設計を図る。それが本来の為政者の仕事であろう。
 年金が当てにならないのなら、働けるうちは働きたいと考えるのが常識である。元気で働く意欲があっても、社会制度がそこでシャッタアウトしてしまうから、高齢者は職に就けないのである。若者世代は自分の孫子の世代である。高齢者も徒に負担を掛けることを望んでいるわけではない。自助努力するのが一番よいと考えているはずである。
 しかしそうは言っても、寄る年波には勝てない場面は無論ある。それには科学技術の力を借りることも有効である。徒に寿命を伸ばすことを医療の目的にするのではなく、生きている限りはQOLの維持を図る。あるいは筋力に劣るのであれば、ロゴットスーツの活用を図る。
 知恵を尽くせば、活路は如何様にも見出せる。今回の経済対策には、本当に必要なこうした基本的な方向性がほとんど示されず、かつ個々の政策間の整合性が甚だしく欠落している。だから評価出来ないのである。これは明らかに政治の怠慢である。(この項続く)