高橋洋一さんの唖然№2−本当にぶったまげた−

 1月29日付け本欄に、政府通貨の発行に関して私なりの批判として「高橋洋一さんの唖然」を書いた。しかし今朝の新聞を見て唖然どころではない。本当にぶったまげた。あの高橋さんが窃盗容疑で書類送検されたのだと言う。
 31日付けの毎日新聞によると、高橋さんは、24日に奥さんと出掛けた「としまえん」の温泉施設「庭の湯」の脱衣所で、現金5万円入りの財布と高級時計ブルガリ(数十万円相当)を盗んだ疑いがかけられているということである。
 本人は容疑を認めているということであるが、言い訳の弁が振るっている。「いい時計だったのでどんな人が持っているのか興味があり盗んだ」というのである。噴飯ものである。
 新聞報道だけでは何とも言えないが、この容疑が事実だとしたら本当にとんでもないことである。齢を重ねれば脛に一つや二つの傷を持つことはあろう。意識しないで人を傷つけてしまうこともあろう。かく言う私も胸に手を当てれば、これまでの人生において全てが清廉潔白と言えない面はある。だがこうした破廉恥罪に手を染めることはまれである。
 主義・主張と人格は別物と言いながらも、市場原理主義というのは「目の前の欲しい物は奪ってよし。奪われる方がトンチキだ」とする考え方なのかとついつい勘繰ってしまう。
 高橋さんはお役人をお辞めになった後も、東洋大学教授という顕職に就き、お書きになった著書もベストセラーとなり、マスコミへの露出も数多く、他人の懐具合を窺うのは下賤にすぎるかもしれないが、お金に不自由していることはまず考えられない。もし不自由されているとすれば、市場原理主義の被害者は踏んだり蹴ったりである。
 市場原理主義者の欲望は飽くところを知らないということであろうか。盟友の竹中平蔵さんは未だ破綻した理屈を捏ね繰り回して稼ぎ捲くっているし、「反省した後悔した」と言いながら中谷巌さんもまたマスコミで稼ぎ捲くっている。私の目には、高橋さんが偶々こういう容疑をかけられたから言うのではないが、どうも市場原理主義者と言われる人たちは一蓮托生であるように見えて仕方がないのである。
 彼らのポリシーメーカーとしての誇りはどこにあるのだろうか。彼らのポリシーメ−クは要するに私腹を肥やすためだけの手段に思えてならない。そう思えるのは何と言っても、彼らが天下国家を語るのに命がけでないことである。
 新渡戸稲造の『武士道』では、この国の道徳が武士道によって形成されたことが繰り返し語られる。同書によれば、武士道の掟の中でもっとも厳格な教訓は“義”であると言う。義の大本は正義である。だがこの語は現代の正義よりも幅広く、節義、義理、忠義、義務など、“義”を含む言葉を悉く含む概念と言ってよい。
 そして“義”を果たすためには、ここに“勇”が求められる。“義”と“勇”は双子の兄弟である。たとえば四十七士が忠“義”によって立つ時、辱めを受けた朋輩の汚名を濯ぐために“義”理によって立つ時、悉くこれは、“勇”がなければ首尾よく“義”を果たすことが出来ない。これは孔子が言うところの「義をもてせざるは勇なきなり」ということでもある。
 しかしながら、単に“勇”を振るえばよいということではない。暴力的でしかない“勇”は蛮勇である。真の“勇”には、そこに“仁”あるいは“惻隠の情”が働かなければならない。“勇”の発揮は“義”の証明でもある。武士が“義”の務めを果たせないことは“恥”である。“恥”を濯ぐために、武士は切腹する。
 武士はこうした高い道徳の掟の中で生きて来た。ハラキリはその現象面だけ見れば、とりわけ西洋人の目にはただの野蛮に映ったことであろう。現代の日本人から見てもそうであろう。だが果たすべき“義”を果たすためには死をも恐れないということが、ここでの本旨である。そうした意味で、ハラキリはノーブレス・オブリージュの発露と言ってよいわけである。
 高橋さんの不祥事から、ハラキリにまで話題が飛んでしまった。何時ものことながら少々飛躍し過ぎであるかもしれない。しかしこの国に足りないのは、決して小手先の浅知恵ではないことだけはここで改めて強調したい。政治家をはじめとして、ポリシーメーカーに一向に覚悟の見られないことが、諸悪の根源であることを言いたいわけである。
 小沢さんの問題で、民主党が大揺れである。ただこれは“義”を果たすための動揺ではない。小沢さんをこのまま戴いて「自分たちが次の選挙で勝ち残れるか否か」不安になったところから発する、極めて私的動機による動揺である。あの前原グループ小宮山洋子さんなどの発言も「代表がこうでは、選挙に勝てないではないか」ということにすぎない。私たちは貴女が選挙に勝てるか勝てないかなどに一切興味はない。そのことを100%お忘れではないのか。
 政治に金がかかると言いながら、政治すなわち選挙にしか関心がない。ルール上の政治資金は小沢さんに比べると、前原さんや小宮山さんはクリアであるのかもしれない。だがその使い道がほとんど選挙対策であるとすれば、何をか況やである。
 またこれにはご自分で集めた資金のみならまだしも、血税を割いた議員経費まで自らの選挙費用に注ぎ込まれる。そうした本質論に触れることなく、小沢さんを批判しても心ある国民には一向にそれが届かない。
 この国にはハラキリ精神すなわちノーブレス・オブリージュの気概を持つ、ポリシーメーカーが皆無である。国民が望むのは、「政治資金規正法」などというどうでもよい法律に触れるか触れないかなどという些事(?)ではない。
 私たちが真に望むのはポリシーメーカーの“義”であり、“勇”であり、“仁”である。そして責任の取り方としての“ハラキリ”である。こうした気概がないのであれば、政策を論じることを職業とすることなど、政も官も学も、皆お止めになって欲しい。心からそれを切望する。