沖縄旅行から考えたこと

 1日の日曜日から三泊四日で妻と沖縄に出掛けて来た。貯まったマイルと会社の契約施設を利用した貧乏旅行である。沖縄は観光立県の地である。西洋人を含めてそれなりに旅行者で賑わっており、私が泊まったホテルも結構宿泊客が多かった。しかしとは言っても、100年に一度の危機の最中である。観光客が減少していることは間違いなであろう。
 ただ私が言いたいのは、どんな危機の最中にあっても日常の生活は続くし、旅行したい人は旅行に出掛けるということである。テレビ・新聞等のマスコミ報道では、経済危機を徒に煽る傾向が強く、右も左も真っ暗な思いに誘導されがちであるが、これまでの延長線の世界も確かにあるということだ。
 話は古くなるが、60年安保当時、時の総理が「安保反対、安保反対保と騒いでいるが、後楽園や国技館(?)は、野球観戦・相撲観戦の観客で一杯ではないか」と申うたとのことであるが、どんなに世の中が騒がしくても一般庶民の生活は平然と続く。そのことを忘れてはならないということだ。
 トヨタが何兆円の損失を出そうが、トヨタに関係ない人々の生活は平然と続く。それが現代の情報化社会の中では、徒に恐怖感が煽られてしまうこととなり、必要以上に消費マインドが萎縮してしまう。そして本当に100年に一度の恐慌に突入してしまう。
 経済経済と気軽に言うけれど経済の実体は人の数だけあると考えた方がいい。経済は一種のイデオロギーの産物であるからだ。私の経済と貴方の経済は違うのである。だから貴方の経済が好調で、私の経済が不調であることは当たり前であるし、当然逆もありえる。これは同じだけの収入があっても、一方では好況感を感じ、一方では不況感を感じてしまうということでもある。
 要は与えられた1万円をどう自分なりに満足度の高い商品・サービスの購入に当てるのかということである。座るだけで何万も取られる銀座のクラブに出入りし何億もする六本木のアパートに住むヒトと、1万円で1ヶ月の食費を賄うような生活をしているヒトでは、当たり前のこと価値観が異なる。だがホリエモンのケースを想起するまでもなく、どっちの生活が幸福かというとそれは分からない。ただ言えるのは、1万円で1ヶ月暮らせる生活も実際にあり得るということだ。
 経済(=おカネ)がわれわれにとってなぜ大事なのかというと、それは生活を支える手段であるからだ。経済は飽くまでも手段であって、目的ではない。目的化するからそれが少しでも減ったりするとパニックに陥ってしまう。これは会社という組織が只管成長をビルトインして成り立つものであるからだ。
その前提としては株価の維持という脅迫観念が存在する。株価が一定の水準を下回ると、市場が退場を促していると言われることとなる。経営者は何よりこれが怖い。健全経営していても、何かの拍子で株価が暴落することはあり得る話である。だけど市場って何ものであるのだろうか? 市場というと何となく神の存在を感じてしまうが、詰まるとことろその正体は、証券会社のアナリストであったり、ディーラーであったり、投資ファンドであったりするにすぎない。みんな唯のヒトである。それに必要以上に怯えるのが、今の市場制度である。彼らは市場、突き詰めれば会社の何を知っているというのであろうか? 本当に有効な情報がインサイダー情報であるとすれば、基本彼らはそうした情報に触れる立場にはない。よしんばそうした情報を持っていたとしても、彼らはその情報を“市場”で有効活用することは出来ない。
 本欄で何度も書いたが、現代の不況は“制度不況”の色彩が濃い。この場合の制度というのは、会社の仕組みであったり、会計制度であったり、有価証券市場の運営であったりということである。たとえば会計制度では時価評価や四半期決算の呪縛が強すぎる。時価会計は現代の会計制度において金科玉条とされるが、簿価評価だって充分に存在意義はある。これは会社に何を期待するのかという哲学の問題であり、イデオロギーの問題である。さらに言えばシンプルには、「会社は誰のものか」という議論が必要ということである。
 すったもんだの定額給付金も支給が決定した。この政策の一番の問題点は、大枚をはたくにしては、景気の下支えというだけで、確たる目的が定まっていないことである。政策予算を費やす場合、政策効果とワンセットで考えられなければならないが、景気の下支えというだけでは効果測定の仕様がない。まことに空しい政策である。
 そんなことより政策的に配意しなければならないのは、この国の新たな制度設計である。米国型グローバルスタンダードや小泉改革が明確に破綻した今、これは千載一隅のチャンスである。われわれ国民にとって、最大公約的に追求すべき目標は何かということを機軸に据えた、真にしっかりした議論が今こそ必要とされることはない。
 この場合やはり問題は既存政治家の間に合わなさ=不充分さである。民主党もお尻に火が点いた。二大政党制を標榜しながらも、自民・民主両党ともに同じ穴の狢では、国民の選択肢は実際にはないことになってしまう。来るべき総選挙では自民・民主それぞれが対立点を明確にする中で、現職議員の皆さんは全員立候補をご遠慮頂き、全て新人候補を立てるという案は如何であろうか? 明治維新終戦後の政治家は多くがニューウェーブであった。政治は玄人(=旧体制派)でなくても出来るはずである。今度の総選挙はわれわれ国民にとって正念場であることを熟慮しなければならない。