高橋洋一さんの唖然

 最近は色々なことが起こりすぎて少々のことでは驚かないが、日曜朝のテレビ番組を見ていて久しぶりにビックリしてしまった。例の高橋洋一さんが登場して、景気回復にウルトラC(ちょっと古い?)の秘策があると仰るのだ。その秘策というのは、日銀券とは別に政府通貨なるお札を発行して、それを国民一人頭20万円を無償で配るというのである。20万円×1億3千万人で、総額26兆円の対策になり、そしてこの場合、政府はお札を刷るだけなのでコストは限りなくゼロに近いというのだ。
 このことを主張するのは、市場原理主義を激しく非難しているノーベル賞受賞学者のスティグリッツさんを嚆矢として、慶應大の榊原英資さんあたりもそれに与しているということのようである。これを聞いて皆さんはどう思われるであろうか。多分「大抵のヒトは何か変だね? そんな八方両得の方法があれば、これまでなぜ頻繁に活用されなかったのだろうか?」という素朴な疑問をお持ちになるのではないだろうか。
 私はそうした素朴な疑問こそが正しいと思う。印刷代の負担だけで国民に大盤振る舞い出来るのだから、こんな結構な話はない。だがこれは一種の禁じ手である。禁じ手であるから活用されることが少なかったわけだ。
 ではなぜ禁じ手なのか。要するにインチキだからだ。太平洋戦争の最中、わが日本軍は軍票軍用手票)なるものを乱発した。軍票というのは軍が勝手に発行する擬似通貨である。手持ち資金が不足する一方で、物資を徴発しなければならない時にこれが使われた。問題は信用の裏づけがないにも拘らず強制的に発行したため、軍票の信用は限りなくゼロに近かったことである。そしてこれが戦後の占領地域における猛烈なインフレの原因ともなったわけである。政府通貨の発想は、基本的にこうした軍票のスキームと同じであるわけだ。
 紙がおカネとして通用するのは、その背景に圧倒的な国家信用の存在があるからだ。また日銀券の発行に当たっては、その前提として市場における取引実態が先に立たなければならない。例えばその昔日銀券の増減が個人消費の目安とされていた。これは個人消費という経済実態が日銀券の発行を左右するということであって、日銀券の多寡が経済実態を左右するということではない。逆は真ではないのである。
 そして日銀券は日本銀行の負債であるところから、発行高が増えればそれに対応する形で国債等の資産が積み増しされなければならない。複式簿記の世界である。裁量権は留保されるにしても、日銀券の発行には一定の枷が課せられているということである。これが金融市場の秩序をもたらして来た。政府通貨の発行はそうした秩序を微塵に砕いてしまうものであるわけだ。つまり日本銀行から見れば、政府通貨は通貨の番人としての職務遂行を阻害する要因になりかねない存在だということである。政府通貨の発行はすなわち仕掛けられた時限爆弾である。
 また政府通貨も日銀券同様、発行すればこれは政府部門の負債となることに間違いない。大阪学院大の”天才経済学者”を自認する丹羽春喜さんは「財政収入には、①租税徴収②国債発行③通貨発行の3つがある」と言われる。③通貨発行が政府通貨の発行ということである。そしてよく分からない理屈を振りかざして、「日銀券は日本銀行の負債であるが、政府通貨は単なる政府の収入であり、債務を負うものではない」と断言される。
 この議論は全く錬金術師のペテンであり、複式簿記の何たるかを悲しいくらいに理解していないまったくもっておぞましい発想である。政府部門だってファイナスのアクションを起こせば、複式簿記埒外に逃れることは出来ない。丹羽さんは「政府収入が得られる時に、その反対仕訳はどういう勘定をもって対応させる」とお考えなのであろうか。これは初等簿記のレベルなので敢えて指摘するまでもないことだが、収入の見返りに「政府通貨」という負債科目が立てられなければならないことは常識である。
 政府通貨なども発行してそれで終わりとはならないのである。政府通貨は絶対に政府の負債である。負債であるからして政府は政府通貨が存在する限り、この債務に責任を持たなければならない。達観すれば、つまりこれは期限の定めのない永久国債と言った方が分かりやすいかもしれない。
 日銀券(第一通貨)と政府通貨(第二通貨)が並存したとした場合、現下の経済情勢、政府の大借金体質等を前提とすれば、第一通貨と第二通貨の信用格差が生じる可能性を否定出来ない。信用格差が生じれば、多分に日銀券が政府通貨の替り金として増発されざるを得なくなる。だがそうなったとしても、政府通貨債務が消えて無くなるわけではない。いずれはこの始末を付けざるを得なくなる。つまりは政府通貨”債務”の償却である。債務の償却には当然のこと税金が当てられなければならない。要するに政府通貨は錬金術などでは決してなく、付回しにすぎないわけである。勿論、付けを払わなければならないのは後世代である。
 こう見て来れば、なぜインチキであるかの一端がお分かり頂けたであろう。それにしても天才丹羽某は別にして、スティグリッツさん、榊原英資さん、高橋洋一さんなどの大学者先生がどうしてこうしたインチキ・トリックに素直に与してしまうのであろうか? 私はスティグリッツさんなどがいくら市場原理主義を批判したとしても、結局は彼らと同じ穴の狢と信じて止まない。要するに彼らは、額に汗して働いたことのない世間知らずなのである。
 経済は決して大蔵省や日銀の統計の中にあるのではない。こうした人々は経済通を自他ともに認めておられるわけだが、彼らは本当に経済を理解しているのか私は疑問でならない。中谷巖さんと同じように、結局勝手なことを言い出して国民を間違った道に導くことを怖れる。そうすればまた何時か来た道である。
 榊原さんも高橋さんも今はお二人ともに、私学の先生である。だが二人ながらに官僚であった時に米国に留学し、在任中に学位を取っておられる。要するに税金で留学し、学位を取得したということである。だからこうした人たちの発言は厳に無責任であってはならない。またマスコミへの出演料や著作物の印税なども、本当は国民に還元されなければならないものであろう。このことへの理解が彼らにあるのか否かが、彼らを信じる試金石になると私は考えるのだが…。