許すまじ! 中谷巖さんの懺悔(下)

(16日の”上”から続く)
 そもそも米国発の社会科学に関する理論は、自者(米国)に如何に有利な土俵を作り出すかに終始して来たと言ってよい。その最たる例が、新自由主義市場原理主義などの理論的研究である。自由と言われて、それに意義を唱える向きは少ない。だが問題は、それが誰のための自由、何のための自由かということである。このすり替えが米国流の巧妙なところである。中谷さんのように米国流にすっかり洗脳された頭には、これが科学と映ってしまったのであろう。前述した寺岡さんのように、これを科学ではなくイデオロギーと考えれば、こうしたトリックは引っ掛かりようがない。
 それにしても改めて怖ろしさを感じるのは、国家プロジェクトとしての米国の深謀遠慮と洗脳機能である。日経新聞『経済教室』の執筆者などは経済論壇のリーダーである。その大部分が米国の大学での学位取得者である。またウォール街を始めとする世界のビジネスマンは米国著名大学のMBAホルダーである。例えば彼らによって日本的経営などはすっかり否定されてしまった。各国の経営スタイルがその歴史・文化・民族性に負うとことの大きいことは、ある意味自明の理である。それをグローバル・スタンダード大義名分の下に、ひとつのルールに縛り付けようというのは明らかに愚行であった。そのお先棒を担いだのが米国への留学経験者である。
 いずれにしても中谷さんは本当に懺悔するのであれば、筆を折り、自ら閉門蟄居し、以後は只管謹慎で過ごすべきである。鉄面皮を決め込む竹中さんも同じである。またそれが出来なければ以後一切報酬なしでボランティアなどに専念すべきである。言いたいのは、言論人はそれだけ言論に関する責任が重いということだ。その覚悟がないのに、いい加減なことを言ってはならないということである。
 それと”セコイ”話であるが、中谷さんは懺悔のために『資本主義はなぜ自壊したのか〜日本再生への提言』なる書物を昨年暮れに出版し、これが既に結構売れているのだそうである。ということは中谷さんには懺悔をしつつ、印税が入るということである。変な話ではないか? 中谷さんが本当に心の底から懺悔しているのであれば、こうした印税を手にすることは憚られるはずである。例えば派遣労働者対策に寄付しても罰は当たらないであろう。
閑話休題≫これは直接参考にしたわけではないが、16日付のフジサンケイビジネス・アイに『金融マンの責任の取り方は』という米国人コラムニストの書いた記事が掲載されている。この中では、金融マンが「自分たちが行なった行為を後悔している」といくら言ったとしても、その場合「後悔の理由は報酬であって、心を入替えた結果ではないだろう」と厳しく糾弾している。正にわが意を得たりである。”セコイ”人間は私だけでないということだ。
 八つ当たり序に、獨協大森永卓郎さん。年収300万時代と言いながら、ご自身は数千万の高額所得者であるそうだ(テレビでのご本人の弁)。テレビのギャラも去ることながら、講演料は文化人でトップ・クラスということである。どこかのタレントのように、自らの貧乏体験をネタにするのならまだしも、他人の貧乏話で儲けるのは言語道断だ。反則技である。この人の品性も疑いようもない。
 そもそも中谷さんの例に見られるように、経済学者の知恵など高が知れているとすれば、彼らが荒稼ぎするのはおかしい。彼らはフリーの評論家ではなく、立派な大学や研究所に職を得ている。彼らが自らの信念に従って本音の部分で国民を領導したいのであれば、須らくボランティアに徹すべきである。無用におカネを稼いではいけない。それが学者の矜持というものであろう。情けない話である。
私ごとで恐縮せだであるが、私は元々金融機関出身で、現在の研究生活に入る前には一般企業で役員を務めていた。研究員になってからは報酬は三分の一に減ってしまった。大学の非常勤でも少し収入はあるが、これはびっくりするぐらいの薄給である。授業の準備等に少しおカネを掛ければ、すぐに持ち出しとなってしまう。諸々考えるとボランティアである。
 報酬は激減した。でも生活なんかは小さく切り詰めれば何とかやって行けるものだ。金融機関時代も企業役員時代も、世間並みより少し高い報酬を得ていたかもしれない。だが収入があればあるだけ、出て行く方もそれなりであるわけだ。冠婚葬祭、日常のお付き合い、少し贅沢な出費、等々。結局手許に残るものは少ないというのが、私の現実であった。
 結構若い頃から一回数万円もゴルフにかけ、飲みに行ったり食事に行ったりするのもそれなりのところに行けば、おカネなんか残るはずがない。バブルの頃には毎週のように銀座からタクシーという生活も経験した。だがこんな経験は何のためにもなっていない。とんでもない大金持ちであればまた世界が違うのかもしれないが、中途半端なサラリーマンではそんなものである。おカネを稼ぐためのストレスも半端でないものがある。
 そうした諸々を考えればこれは決して負け惜しみではなく、現在のシンプルな生活の方が私には価値があると思う。要はおカネを何のために稼ぐのかということであろう。おカネを稼ぎたいのであれば学者や研究者なんぞにならないで、ビジネスの世界で生きればよい。学者の報酬と研究成果は反比例するというのが私の考えである。つまらない本を書きまくったり、お馬鹿な聴衆相手に東奔西走したり、役所の審議会・委員会を掛け持ちしたりしていては、研究実績を挙げることなど山のあなたであることは論を待たないであろう。だから私は中谷巖さんの懺悔を決して許せないのである。