許すまじ! 中谷巖さんの懺悔(上)

 週刊朝日の1月23日号に、改革の旗振り役として活躍して来た中谷巖さんの懺悔が掲載されていた。中谷さんは、長年米国流の「規制のない自由な経済活動」を重視する「改革派」として活躍しており、特に小渕内閣の『経済戦略会議』議長代理として、竹中平蔵さんらと纏めた種々の提言は後に種々の小泉構造改革に盛り込まれた。その改革派の理論的支柱であった中谷さんが「改革は間違いであった」と宗旨替えしたというのである。
 中谷さんはまず、歴史・文化・哲学の専門家と交流する中で、経済学で記述出来ることは2〜3割であることに気がついたのだそうである。そしてそうした目で越し方を反芻して、グローバル資本主義に基づく米国流構造改革は日本人を幸せにしないという結論を得たということであるようだ。
 ご本人は米国にかぶれ過ぎたと仰る。これは一個の人間としての素直な感慨だとしても、中谷さんの立場ではその罪は決して許されないことである。私などは経済学を少しは齧ったものの、当然のこと中谷さんと比べるに憚る生兵法のレベルにすぎない。だが経済論における事実や定理の発見には一貫して懐疑的な場合が多かった。私自身の元来のフィールドがビジネスであることに由来するのかもしれないが、どんなに定評のある経済学者であっても、その主張に全面的に帰依することはなかった。
 翻って中京大の寺岡寛さんなどはその近著で、「経営論=社会科学はイデオロギー」と喝破しておられる。寺岡さんに拠るまでもなく、経済論が決して事実命題を示すものではなくイデオロギー色の強いものであることは、これまでも暗黙の了解の下にあったと言ってよい。それを大学者の中谷さんが理解していなかったということは、実に由々しき問題であるわけだ。
 経済論がイデオロギーであることを知っていたからこそ、従来から信頼のおける論者の議論は歯切れが悪かった。逆に言えば、歯切れがよすぎる議論は眉唾ということでもあるわけだ。歯切れのよい議論にも二つあって、一つが中谷さんのような「無邪気な無知に由来する」議論、今一つが竹中さんのような「意識的捏造(でっち上げ)に由来する」議論である。後者では経済論の欠陥・限界を知り尽くしながら、敢えて「その真正性を信じているかのように振る舞う」論者によって、”ため”にする議論が展開される。
 この場合の”ため”はある場合には”名誉”であったり、またある場合には”実利”であったりするわけであるが、いずれにしても私的欲望を満たすための議論であることに違いはない。経世済民の考え方などからはまったく対極に位置するものと言ってよい。こうした範疇に落ちる論者は確信犯的であり、したがってその分その罪は極めて重いということである。
 しかしと言って、無邪気な無知が許されてよいわけではない。無邪気であっても、邪気であっても、その結果国民に齎される災厄は同じであるからだ。日本人の感性として謝れば許されるという風潮も強いが、懺悔をしても、鉄面皮を決め込んでも罪状は一緒ということである。それにしても中谷さんに代表される類の学者先生がなぜ重用されるのであろうか? これは大きな意味で、もう一つの構造改革の対象とされなければならない重要課題と言ってよい。懺悔で済まして済まされる問題ではない。現実に中谷さんの旗振りで国民は極めて深刻な影響を受けているわけだ。これが大規模な経済犯罪のレベルという認識があれば、こう無邪気には懺悔出来ないはずである。大学者先生がこの程度の感性しか持ち得ないことが心底悲しい。
(以下、”下”に続く)