テレビ界の異変:正道への道

 年末年始のテレビを見ていて気がついたことが幾つかある。第一に、これまで同一番組に(スポンサーとして)相乗りすることを好まなかった自動車業界がそのタブーを破ったこと、第二に、制作費を抑えることを目的とした生番組が多く目に付いたこと、第三に、某局などでは(正月にも拘らず)かっての高視聴率番組を何時間にも亘って再放送していたこと、等々である。このように一々挙げれば切りがない。
 こうした背景としてはCMスポンサーの成り手が明らかに減少し、したがって制作費を大幅に切り詰めざるを得ない羽目となっていることが第一に指摘されよう。バブル以後多少の変動はあったとしても、テレビ局がそれほど大きなスポンサー不足に見舞われることなかった。そうしたテレビ業界であるが100年に一度の経済危機を前にして、流石に不沈神話も崩れてしまったということである。
 しかしこれはある意味当たり前のことである。視聴率の獲得ばかりに腐心して、「芸のない」芸人や、「能のない」タレントを多用した俗悪番組ばかりを作り続け、知性が求められて然るべきアナウンサーを安手のタレントもどきに仕上げる。その結果社会の公器としての役割をすっかり放棄してしまう。その罪が今問われていると言ってよいからである。
 これはテレビ局ばかりが一方的に悪いということではないかもしれない。それを許して来たスポンサーの罪も一等重い。だがテレビ局を文化産業の担い手と考えれば、やはりテレビ局の責任は免れ得ない。みんな石部金吉、石部金子になってがちんがちんのNHKばりの教養番組を作れと言っているのではない。だが軽薄さや体力ばかりしか取り柄のない所謂タレントに依存した番組制作は、どう考えてもナンセンスな話である。
 自慢話と元妻ダネしかない出っ歯が売りの芸人、暴力沙汰で謹慎に追い込まれながらしゃあしゃあと復活した暴走族上がりの芸人、中学時代の貧乏ネタで稼ぎまくる芸人、世界的な食糧危機の中で臆面もなく食べまくる大食いタレント、県産品のPRをお題目にその実ちゃっかりとタレント業に励む薄毛の某県知事。こんな芸人やタレントのオンパレードである。
 それも本業のお笑いならまだしも、政治経済といった硬派番組にまでも登場して、訳の分からない話で引っかき回す。若干知性の皮を纏ってはいるが、薄毛の知事なども基本は同じことである。軽薄さと無責任さは相変わらずで、県民のことを心底考えているとはとても思えない。またこのヒトの場合は、なまじ知識があってなまじ頭が回り、加えて選挙の洗礼を受けているだけに余計性質が悪いとも言える。彼の正体は自民党の熱いラブコールを見れば一目瞭然である。
 そして何よりも問題は彼らのギャラである。世の中の低俗化にしか貢献しない彼らがどうして数千万とか数億とかの巨額の報酬を得ることが出来るのであろうか? 派遣労働者に心から同情するのであれば、豪邸や高級車の購入、無為な遊興などに費やすことなく、自らの”法外”な報酬を少しは社会奉仕に役立てても罰が当たらないはずである。だがそんな話は寡聞にして聞かない。
 局アナも同じことである。女子アナはミスコン上がりか、帰国子女か、縁故採用ばかり。それが悪いとは言わないが、彼女らが一般常識や日本語の能力に劣るのだとすれば、何をか況やだ。その程度のアナウンサー諸氏が、新人で600万、30歳で2000万といった高給を食んでいることも伝えられる。これが本当だとすれば社会通念から見て許されることではないであろう。こうした常識外れの報酬を出してしまうから、テレビ局は社会からますます隔絶した存在になり、衰退産業となってしまうのである。
 翻って企業経営は、うまく行っている時にはなかなか方向転換しにくいものである。テレビ局においてもこれまではそういうことであったのだろう。だが現状は明らかに一過性に止まらない構造変革を迫っているわけである。この危機を真摯に受け止めなければ、栄華を誇ったテレビ局と言えども待っているのは地獄でしかない。
 元旦の日記に己丑は捻くれたものごとや、曲りくねった道を真っ直ぐに正す歳回りの年であると書いた。テレビ局は曲がりに曲がり捻るに捻った、もっとも正さなければならないものの象徴であるところから、ここに取り上げた。テレビ局は社会の公器、文化産業である。世界的経済危機の最中その原点に立ち返り、新しい方向性を探ることが今日ほど求められていることはない。現下の混迷を奇貨として「正道への道」を模索しなければならないということだ。なお最後にこれは、一人テレビ業界だけのことではないことを強調しておきたい。