”贔屓”文化を政治に持ち込むな!

 世襲はなぜ悪いのか?という問いかけがある。政界だけではなく、例えば芸事の宗家などでは古来一子相伝ということが言われ、世襲が当たり前ともなっている。中小企業などでも世襲が常識で、息子が継がなければ逆に不思議な顔もされる。一家・一族で営々と築いて来た有形・無形の財産であるから、それを散逸させてはならないという理屈なのであろうか?
 門前の小僧とか、蛙の子とか、その置かれた環境やDNAが才能を開花させるという面は確かにあるのだろう。また徒に競争心を煽りすぎて兄弟間、弟子間などで無用の抗争が起きることを、未然に避けるための知恵ということであるのかもしれない。
 世襲を行なう側からの理屈はいくらでも立つと思う。だが問題は世襲によって影響を受ける側からの理屈である。政治であれば国民。中小企業であれば社員。芸事であればファン。そうした人たちの立場から果たして支持出来るかどうかということである。
 例えば落語界。正蔵名跡を小朝が継がずに、なぜこぶ平が継いだのであろうか? 問題はファンにとって、「小朝」の正蔵と「こぶ平」の正蔵のどちらが満足度が高いのかということである。異論はあるかもしれないが、私は、こぶ平正蔵襲名は落語ファンを冒涜する行為だと思っている。
 世襲世襲を行なう側からの理屈が優先される行為であることは間違いない。だが芸事のファンの中には、世襲を無条件で有り難がる傾向もあるわけだ。こうした人たちにとってはどこの馬の骨か分からない人間に名人を継がせるよりは、由緒正しい血統を持つ”ボン”に継いでもらった方がより有り難味が増すということなのかもしれない。これは一家・一族に対するある種の”贔屓”意識と言ってよいのであろう。
 贔屓は理屈でない。好きなものは好き。理屈はそれしかない。百歩譲って芸事の世界はそれでよいかもしれない。小朝の名前であろうが、正蔵の名前であろうが、小朝の落語は小朝の落語である。
 世襲の一番いけないところは、世襲を受けた人よりもっと能力に恵まれたひとがいても、それが排除されてしまうことである。芸事は兎も角、政治の世界ではこれはあってはならない。選ぶ相手を間違えば当然のこと、われわれの生活が立ち行かなくなってしまう。高度成長期には経済がうまく行くことによって、失政も陰に隠れてしまっていた。今日政治がこれだけ取り沙汰されるのは、失政をカバーするものが無くなっているからだ。政治の失敗が生活に直結することは、年金・医療・金融どれをとっても理解出来ることであろう。
 政治の世界もとりわけ地方で先生の”ボンボン”を珍重するのは、”贔屓”意識のなせる業であろう。これは”贔屓”文化と言ってもよい。また理屈ではないだけに一層処置が悪い。「あの先生は公共工事補助金をたっぷり地元に持って来てくれるから支持する」ということであれば、政治改革なども簡単である。予算を無くせば問題は解決する。しかしながら根底にこうした理屈ではない”贔屓”文化があるとすれば、それが複雑骨折を起こしてしまう。
 総選挙が近いと言われる昨今、有権者とりわけ地方の有権者は「悪意ない”贔屓”文化がわれわれの生活を脅かしていること」に思いを馳せるべきである。