制度恐慌は万難を排して回避せよ!

 株式市場は案の定乱高下を続けている。市場に参加している皆さんには申し訳ないが、このジェットコースター相場に一喜一憂している暇はない。今やらなければならないのは、実態経済への波及を何としても阻止しなければならないということだ。
 株価の値下がりが実態経済に影響を及ぼす「波及経路」は三つあると考える。第一が心理的影響を通じて波及する経路であり、第二が直接的な影響を通じて波及する経路であり、第三が流動性を通じて波及する経路である。
 第一の心理的影響は言うまでもあるまい。連日連夜株価暴落が伝えられれば投資家でなくても気持ちがシュリンクしてしうまう。第二の直接的影響は例えば株価低下のマイナスの資産効果によって、消費が削減されてしまうようなことである。この二つは相対的に古典的な政策手段を持って対応可能と考えるため、ここでは議論しない。
 問題は第三の流動性を通じる経路である。古典的にもこうした傾向は見られるが、私は最近のこの問題はとりわけ制度設計の間違いによる影響が大きく、これを放っておくと「制度恐慌」に発展し得ると考えるのである。
 まずは時価会計である。時価で評価を行なわなければならないのは、特定時点におけるその企業の「解散価値」の計量を必要としているからである。株に限らず市場で値決めされるものは上下するのが当たり前である。それを特定時点の価格で評価することの愚は、今更指摘するまでもないことであろう。またそれ以上に注意を要するのは、本来的に「ゴーイング・コンサーン」が前提とされる企業において、特定時点の解散価値で企業を判断してしまうことである。とりわけ長期的視点に立った経営を目論む経営者に受難の制度であることは常識だ。
 単純な時価会計の発想が「金融検査マニュアル」にも反映されたことを主因として、ミレニアムを跨いで中小企業を中心に、貸し渋り貸し剥がしが社会問題となったことは記憶に新しい。以下は私自身が現場で出くわした経験である。
 当時役員を務めていた会社が厳密な時価会計評価の結果「破綻懸念先」とされてしまった。その主要因はバブル期に買った「ゴルフ会員権」。いくつか倒産したものもあったので、それは仕方がない。だがメジャー・トーナメントも開催するようなゴルフ場の会員権が購入価格の十分の一になったからといって、それを時価で評価してバランスシートに機械的に繁栄させていいものかどうか? このコースが潰れるようであれば多分わが国自体潰れてしまう。それぐらいの位置づけにあるコースである。ゴーイング・コンサーンを前提とすれば急いで時価評価する必要はない。
 こうした愚策を採用することした結果、早期是正措置という美名の下に資本注入のために巨額の血税が投入された。こうした政策の推進者はこれで負の連鎖を断ち切ったと自画自賛するが、ある意味これはマッチ・ポンプである。自ら作ったルールで不良債権を作り出し、その償却に税金を使ってしまっておいて、財政再建も何もあったものではない。
 このことは私に限らず、現場を預っていたものの素朴な感慨である。当時の勢いではこうした異議に対して誰も耳を貸してくれなかった。だが日経新聞の伝えるところによれば、主要国の間で、一部時価評価の凍結が議論されているということのようである。やれば出来るのである。私はこれを全面的に支持するが、やはり動き出すのが遅すぎる。
 次に、BISの自己資本比率規制である。これがきつい縛りとなっているため、金融機関は自己資本の12.5倍(8%の逆数)までしか資産運用が出来なくなっている。私はこの規制がBISから発案された時、勤務先の金融機関で対策に当たった経験を持つ。
 BISの話を聞いた時瞬間的に疑問を感じたのは、なぜ自己資本比率で、なぜ8%なのかということであった。自己資本比率の重要性は認めるものの、今回の金融危機に見られるように一旦ことが起きると8%ではとても足りない。システミック・リスクを回避する手段は自己資本比率に限るものではない。むしろ日頃からの監督とラスト・リゾートとしての政府の役割を明確にすることこそ重要である。
 BISの規制案が示された当時は、世界市場において日本製品が一人勝ちし、日本の金融機関も国際的プレゼンスが非常に高かった。その失地挽回策が米英連合によるBIS案であるという見方は、多分検討外れではないであろう。
 達観すれBIS規制などは、BIS、BISと押し戴くほどのものではないということだ。今回流動性危機が生じ、世界規模で貸し渋り貸し剥がしが起きるとすれば、必ずこのBISの自己資本比率規制が起爆剤の一つとなる。時価会計の凍結とともに、BIS規制の撤廃も急がなければならない。
 時価会計、BIS規制ともに、誰かが何かの意図で導入した制度である。これに縛られる謂れは本来的に少ない。これが原因で世界恐慌が起きるとすれば、それは正しく「制度恐慌」である。制度は飽くまでも人間が作ったもので万全ではない。万全でない制度を変えることに躊躇する必要はない。大事なのは無辜の国民の生活を守ることである。