経済政策の実効性を問う:それって税金ですよね?

 今この時点で「経済政策なんか無駄だからお止めなさい」と書けば、四方八方から袋叩きに会いそうである。でも敢えて勇気を振り絞って書くこととする。私は経済政策とりわけ財政政策をめぐる議論を聞いていて、皆無責任すぎると思っている。
 麻生さんも今政府支出を増やさなければ、日本経済は地獄を見る。だから補正予算を組んで対策を図らなければならないと言われる。だが誰が財政政策の効果などきっちり証明したことがあるというのだろうか? 確かにJ・M・ケインズの考え方に沿ってニューディール政策がとられた。そしてそれが多大な効果を発揮したところから大恐慌から克服したということであるかもしれない。
 だが経済学は「厳密な実験に基づかない」あるいは「厳密な実験の出来ない」特異な”科学”である。誰がその効果をきっちりと検証したというのであろうか? 被説明変数に”所得”をとり、説明変数に”財政支出”をとって推計すれば、説明性の高い方程式を導くことが出来るかもしれない。しかしだからと言って、これで証明出来たと考えるのは早計である。説明変数に「鰯の頭を信心する人の数」をとっても同様の結果が得られるかもしれないのである。
 気象予報が不確定要素が多すぎてビシバシ当たらないのと同じように、経済予測も説明変数としての不確定要素が多すぎる。加えて経済予測は人間という極めて「気まぐれな心を持った」存在が対象であり、気象予報以上の厄介性を宿命として抱えている。また経済学の法則なるものは、ある時点で機能したとしても今この時点で機能するかどうかは分からないというのが正直なところである。それをきっちり議論しないのは無責任である。
 さらに財政政策に関して心情的に気に食わないのは、その財源がわれわれ国民の税金および預金であることをすっかり忘れてしまっていることである。これを忘れているから政府カネを出すことに安易に言及するし、国民もカネをおねだりする。原油高騰時の漁協の政府への抗議行動がいい例である。上がった油の補填を求めても、それは所詮自分の懐から出さざるを得ないということが端から忘れられている。政府は”打ち出の小槌”ではないのである。
 ちょっと難しい言い方をすれば、財政支出の財源は「現在所得」と「過去の所得余剰分(預金)」の二つにしかない。すなわち財政支出の財源は、一つが税金、今一つが国債しかないということである。皆国民の懐なのである。財布なのである。”賢い”政府はそんなこと先刻ご承知のことかもしれないが、”愚かな”国民はそこまで頭の回らない人が大半であろう。そのことを審らかにしないのも無責任である。
 経済政策に財政支出拡大が割り当てられることが是認されるのは、国民一人ひとりの消費性向及び投資性向に任せておいては円滑な経済運営の期待出来ない時である。つまり国民任せでは国民はカネを使わないので、政府が国民に代わってカネを使ってあげましょうということだ。それはそれで一理ある。だがその場合大事なのは、”1”以上の乗数効果が期待されること、つまり支出したカネ以上の所得増加が見込まれることである。
 このことが見込まれないのであれば、使われたカネは死に金である。残るのはまたぞろ借金ばかりということになってしまう。私は闇雲に経済政策に反対しているのではない。効果が期待出来るのであれば、財政支出を増やせばよい。だが本当はあまり期待出来ないというのであれば、そんなことやらない方が結果的に得策だと言っているのである。
 バブル経済が弾けて以降、実に様々な経済対策が図られ財政支出が拡大されて来た。中小企業向け信用保証枠の拡大、ベンチャー振興策、科学技術振興策等々、枚挙に暇がない。そうした財政支出の効果を誰が確認したというのだろうか? 近年の景気回復が輸出に牽引されたものであるとすれば、それで果たして政策が功を奏したと言うことが出来るのであろうか?
 国が理念・理想を失っていなければ、アナウンスメント効果つまりは鰯の頭だって景気回復には効果があるのだ。死に体の病人にいくらカンフル剤を打っても、本復は望めない。そのことをちゃんと議論しなければならないということだ。