金融危機とノーベル賞

 今朝起きてびっくりした。下村脩さんがノーベル化学賞を受賞したとの報道に接したからである。
 前日南部陽一郎さん、小林誠さん、益川敏英さんのお三方が物理賞を受賞したことを聞いた時に、一度に日本人が三人も受賞するのは何か意図があるのではと思ったのだが、下村さんの受賞でその思い(妄想?)が一層強まった。これで村上春樹さんが文学賞を受賞すれば、妄想が確信に変わる。
 ノーベル平和賞がその本来的意味合いから、政治色を帯びていることはつとに有名である。しかしこれは平和賞に限ることではなく、他の分野においても大なり小なりそうした色彩を帯びていることは容易に想像がつく。
 自然科学の分野はよく分からないが、ノーベル賞に値する研究成果はあまたあるわけである。そうした成果に対して毎年数人に絞るためにはアットランダムというわけにはいかない。何らかの基準が必要である。政治的意図が働いておかしくない。
 以下は”穿った”見方である。9月19日の本欄で「リーマンの破綻はアメリカン・スタンダード終焉の第二章」と書いた。その延長線で、今回ノーベル賞が四人の日本人に与えられたことは、「アメリカン・スタンダード終焉の第三章」と言ってよいと思う。
 米国の金融システムが砂の城であったことが、白日の下に曝け出された今、世界は次の社会経済モデルを求めている。以下は夕刊フジからの孫引きである。
 仏ルモンド紙に『サムライの復讐』と題する論文が掲載された。相対的にサブプライム・ローンで怪我を負わなかった日本企業が米金融機関の買収に乗り出していることが、”サムライの復讐”だと言うのである。
 「日本は”失われた10年”に呻吟し、すっかり世界の表舞台から姿を消したように見られるが、ロボット技術は世界一であるし、研究開発予算の水準も高い。最近は中国ばかりに気がとられ、日本の復活など誰も気にしていないが、侮ってはならない」というのがその趣旨である。
 米国の金融危機の余波は欧州にも飛び火し、金融機関への資本注入が燎原の火のように各国に広まっている。元々欧州とりわけ大陸諸国は米国の社会経済モデルに懐疑的であった。しかし流石は外交技術を磨きに磨きぬいた国々である。表面的には米国に反旗を翻すことはなかったが、その懸念が消えることはなかった。
 世界は次代の社会経済モデル構築を急がねばならない。四人のノーベル受賞者とルモンド論文。「ユダヤが分かれば世界が分かる」式であるかもしれないが、そこに一枚日本を噛ませたいという意志がどこからか働いているように思えて仕方ないのである。
 繰り返す。以上は私の妄想である。
 ただ言えるのは8月27日の本欄に書いたように、社会経済モデルの再構築には、思考方法としての西洋的「二分法」の考え方だけではうまく行かないということだ。「二分法」だけが唯一ではなく、東洋的「多一論」の考え方も重要であるわけだ。
 「多一論」というのは例えば徒に”正”と”邪”を対極的に扱うのではなく、「正は邪であるし、邪は正である」というように、決め付けを行なわない考え方である。般若心経の「色即是空、空即是色」の考え方と言った方がよいかもしれない。
 この「多一論」の考え方はもともとは中国から渡って来たものであろう。日本の専売特許というわけではない。だが共産主義という「二分法」的思考の極致を身をもって経験した現代中国に、そうした考え方が果たして伝統として根付き、受け継がれているかどうか?
 中国に「多一論」の考え方が希薄であるとしたら、頼みの綱は日本である。世界で真に尊敬を受けるためには、GDPの大きさやその成長の速さを誇るだけではなく、思想こそ重要ということではないのか? 発展途上国であった日本が世界から注目されたのは”武士道”の精神ではなかったのか?
 ノーベル賞に戻る。100年を超えるその歴史において、わが国からの受賞者は今回を含めて16人と極端に少ないが、ご案内のように分野としては理論物理学分野が多いわけである。理論物理学が自然科学の哲学であるとするならば、そのことの意味は大きい。「多一論」の意識的な展開とともに、「尊敬される日本」「美しい日本」への第一歩はここから始まると言ってよいのではなかろうか?
 因みにノーベル経済学賞はノーベル自身が作ったものではない。1968年にスウェーデン国立銀行が制定したものであり、ノーベル賞の鬼子である。