経済政策を考える(下)−経済政策以前の問題

絶妙な手綱捌きで就任直後に見舞われたブラック・マンデーを乗り切って以降、数々の難局に立ち向かう中で1990年代の米国経済の”黄金時代”を演出した立役者として、A・グリーンスパンFRB議長の評価は高い。彼のFRB議長在任が1987〜2006年の長きに亘ったことが、その評価と功績を如実に物語っていると言えよう。
金融政策は凧糸を操るようなものである。風の方向を読んで向きを変え、風が強ければ強いなりに弱ければ弱いなりに、五感を駆使して、出来るだけ長時間に亘って高い位置を維持するよう調整を図る。
金融政策は短期的効果が期待される政策手段であり、この場合重要なのは的確に景気情勢を判断する能力とタイムリーで果敢な政策実行力である。グリーンスパンはそうした能力を二つながら持っていた。マエストロと称されるゆえんである。
なおこうした個人的能力に加えてグリーンスパンが活躍できた背景としては、米国において中央銀行の独立性が敢然と保たれていることがあげられなければならない。
翻ってわが国では如何であろうか?
わが国では、政府及び政治の日銀への関与がより強いことは間違いない。総裁人事を巡るドタバタ劇や、日銀の政策決定に政治が強く干渉していることなど、その独立性は甚だ危ういと言ってよい。
また財政政策を巡る環境も不安だらけである。先の総合経済対策も極めて評判が悪い。総花的で付け焼刃。そこには整合的な思想性の欠片も見られないからである。公明党のごり押しで定額減税が盛り込まれたことなどその最たる例である。
政策通として自他ともに許す与謝野馨・経済財政担当相が仕切った結果がこれである。経済政策に限ることではないが、政治的妥協で決定された政策に不純物が混じりすぎると、期待する効果は甚だしく殺がれてしまう。
政治家先生たちが本当にこの国のことを憂えているのであれば、自らの政策立案能力を高めることが最低限の義務である。国会を選挙や利益誘導、政局の道具にするばかりでは、何をか言わんやである。
官僚たちもそうである。一時海外留学組官僚の大量退職が問題になったが、留学組に限らず官僚の退職は引きもきらない。
先週の日経新聞『経済教室』に、4日に経産省出身の石川和男・東京財団研究員、5日に財務省出身の高橋洋一東洋大教授と、相次いで官僚出身の研究者が執筆した論文が掲載された。
彼らの知識ベースは飽くまでも政策立案に力を発揮すべく蓄積されたものである。どんな理由があって退職したとしても、彼らが一介の市井の研究者として発言するのは彼らにとっても本来的に不本意であるはずだ。
石川研究員はその論文で、「産業振興から生活者重視へとパラダイム・チェンジが図られる中では、消費庁などという中途半端な組織ではなく、経済産業省を廃止して国民生活省を新設するぐらいの大胆な方策がとられて然るべきである」と述べている。経産省出身者の発言だけにとりわけ傾聴に値する。
しかしながらこうした闊達な議論が、行政組織内においてどうして展開出来ないのであろうか? 高橋教授も然りである。彼も大変ユニークな視点の持ち主である。彼らのような異能を行政府の中で活用しきれないことは、この国の大変な損失である。汚点である。
採用すべき政策について”知恵”はあるはずだ。だが”知恵”があってもそれを生かすことが出来ないのであれば宝の持ち腐れである。政策の不振は”知恵”がないこと以上に、それを生かす力と仕組みが足りないということであろう。経済政策の成否を論じて、ここまで思いを馳せなければならないのは辛いことである。