経済政策を考える(中)−金融政策の憂鬱

金融政策について考える。
金融政策は片肺飛行である。片肺の意味は金利政策が機能不全に陥っているからである。金利が限りなくゼロに近い低空飛行を続けている中で、ただ今現在は量的調整しか機能していないと言ってよい。
名目金利が限りなくゼロに近い状態物価が下がればどういうことが生じるであろうか? 実施金利の上昇である。名目金利をゼロに誘導しながら、物価の安定を図るとどうしても実質金利の上昇が生じてしまう。失われた10年というのはそういう時代であった。経済は停滞して当たり前である。
また量的緩和が図られたとしても、こちらはもっとややこしい。量的緩和のターゲットをどこに据えるかが重要となるからだ。たとえばサブプライム問題を解決するために、金融機関の流動性維持を目的に金融緩和を図るとすれば過剰流動性が生じてしまう。金融機関救済のために供給された流動性が結局は過剰流動性となって、石油価格を押し上げてしまったりするわけだ。
わが国においても中小企業金融においては同様のことが生じている。景気対策と言えば、馬鹿の一つ覚えで中小企業の金融対策が必ずセッティングされる。この場合政策の展開次第では、本来的に自然淘汰されるべき企業も淘汰されずに生き残ってしまう。
政府系金融機関を中心に潤沢な資金が準備されたとしよう。この場合本来的な金融ベースではとても貸せない先にまで貸出されることとなってしまう。過剰流動性以外の何物でもないことが容易にお分かり頂けるであろう。
翻って金利水準を考える。金利を国内の閉じた世界で考えれば、国民経済的に金利は不胎化されてしまう。すなわち最大の借り手である企業が高い金利を払わなければならないとしても、一方で最大の資金供給先である個人はその高い水準の金利を受け取るわけである。金融機関の仲介手数料を無視すれば金利水準は常に中立化されてしまう。これが不胎化のゆえんである。
中?金持ち(大金持ちであっても無論よい)の太宗が中小企業経営者であるとすれば、本来的にミクロベースでもこの不胎化は一般的であるはずだ。なぜこのことにもっと焦点が当てられないのであろうか?
わが国経済の停滞は金利の低すぎることがその原因と言い切ろう。株高の資産効果が喧伝される一方で、低金利のマイナスの資産効果が無視されるのはなぜであるのか。
企業年金の運用利回りはこれまで5%程度を目途に運用されて来た。この5%という水準は金利のメルクマールとして据わりがよい。
たとえば1千万円の貯金で年間50万円の利息が得られれば、消費者の行動もまた異なることであろう。金利を低くすれば借入需要が増えて景気拡大が図られるという発想は、企業サイドに偏りすぎて言ってよい。
金融政策の観点からも、5%であれば引き上げにも引き下げにも絶好のポジションである。金融当局は金利は市場が決めるものと言うかも知れない。
だが最新の「情報の経済学」の示すところによれば、金利は市場が決めるものではなく(あるいは決められるものではなく)、金融機関の一方的なオファーによって決定されるということである。
金利が上昇すれば大量の国債を抱える財務省が頭を抱える事態となるかもしれないが、一方で年金ファンドの運用が改善するわけでもある。経済に一方通行的な関係性は存在しない。どちらかが凹めばどちらかが凸っぱる。
戦後最大の国難を打開するためには大胆な発想こそ必要である。何時までも米国発の経済学にしがみついては途が開かれないと考えるのは筆者だけであろうか? 格好だけのエコノミストはもう要らない。