石井慧選手と国民栄誉賞

最近沙汰止みとなっているが、一時北島康介の「国民栄誉賞」受賞が取り沙汰された。この賞はシドニーオリンピックの金メダリスト・高橋尚子選手を最後に受賞者はいない。
いずれにしても「栄誉賞」という賞は実に不可解である。授賞の基準がはっきりしないからだ。仮に柔道の石井慧選手が引き続き大活躍を続けたとしても、そのキャラクターから言って多分対象とはならないであろう。
しかし北島選手と石井選手の何が決定的に異なるかと言えばよく分からない。石井選手の方がいい奴である可能性だってある。これは性格の良い悪いではなく好感度の問題であるとすれば、余計分からなくなってしまう。高感度の高い低いをどうやって判断するのであろうか。世論調査だっていい加減だ。まさか国民投票にかけるということにはなるまい。
国民の功績を讃える賞としては褒賞と勲章の授与がある。これでなぜ駄目なのであろうか?
もっとも褒賞や勲章の授与基準もいい加減である。政治家や公務員、国立大学の教員が多く授与すカラクリもよく分からない。とすれば褒賞・勲章も「国民栄誉賞」も同じ穴のムジナということか。
国民栄誉賞」は不人気では人後に落ちない福田赳夫総理時代に創設された。これまで15人の受賞者について時の総理を見てみると、総じて人気に劣る例が多い。この賞は不人気内閣の証明ということであるかもしれない。そう言えばあのパフォーマンス好きの小泉内閣では一人も受賞者は出なかった。
本当は「国民栄誉賞」などどうでもよい。少し余分な話をしすぎた。考えていたのは政府の無駄である。行革・財政再建を叫びながら「国民栄誉賞」を含めて、こんな無駄あんな無駄が山ほどある。
サービス停止が即国民の安全を脅かすこととなる国防、警察、消防、医療などを例外として、一切行政サービスを停止してみたらどうであろうかということを最近しきりに考える。1年ぐらいそうして見て、誰も困らないものを提供サービスから外す。
これまでのように恣意的な議論を行なっても生産性は極めて低い。「国民栄誉賞」と同様の不透明さが今後とも必ず付き纏う。行き詰まった時には、単純な処方箋が一番である。