伊藤和也さんを悼む−それにしても宗教−

アフガンの伊藤和也さんが祈り空しく遺体で発見された。謹んでご冥福をお祈りしたい。合掌。
それにしてもアフガンの再生に貢献したい。ただただそれを願っただけの無辜の命がなぜ奪われなくてはならなかったのか?
宗教は悩める子羊を救う。そして一旦その味を知ってしまうと、麻薬と同じでその影響から逃れることが難しい。自発的な信心でさえそうであるのだから、無前提に生れ落ちた時からどっぷりと浸かった信心では、その影響を逃れる術はない。
海外に出て入国カードを書く時、戸惑うのは宗教欄である。ブランクでは野蛮人と思われるという先輩のアドバイスに素直に従って、「仏教徒」と記入することにしているが、これには何時も違和感を覚える。
日本人のほとんどが仏教徒とされる。しかしながら寺に行くのは葬式だけ。初詣には神社で手を合わせ、結婚式はキリスト教会。これがなぜ仏教徒なのであろうか。本質は無宗教ならぬ、多宗教である。
日本人は古来八百万の神々を信仰して来た。健康祈願にはこの神。縁結びにはあの神。それで少しも矛盾を感じない。西洋でもギリシア・ローマの神々はそうであった。
古代日本でも、古代ギリシア・ローマでも、神々は人間的で大らかであった。達観すれば多神教の神々は、人間の持たない能力を有する特殊技能者という位置づけである。
だから一人の乙女を巡って、神と人間の恋の鞘当なども起きることとなる。ここでは決して神が人格者ではないのである。
キリスト教にしても、イスラム教にしても、ユダヤ教にしても、神は正しいことを行いなさいと言う。だけどこれらの神は元来荒ぶる神であって、決して観世音菩薩のように慈愛に満ちた存在ではない。
またこの神の言う正しいことは、神が決めた”正しい”ことであって、これに議論の余地はない。認められないのであれば、制裁を覚悟して神と契約しなければよい。それだけのことである。
伊藤さんの話に戻る。伊藤さんが所属していたNGO幹部の当初の見解では、「自分たちの活動は地域住民に充分評価されており、活動の内容を知っていればテロリストも無碍なことはしないだろう」ということであった。
自分たちは人道的立場に立って”正しい”ことをやっているのだから、必ず理解されるという発想である。話せば分かるということである。
だが犯行を実行したとされるタリバンによると、ただただ「外国人は皆アフガンから出て行け」ということであり、これが彼らの”正しい”ことであるわけだ。ここには人道的支援もなにもない。只管外国人は排除せよという発想しかない。
三大一神教の全ての共通の神とされる”全知全能”の神は本来我がままである。その命令は絶対であり、人間はいささかも逆らうことが出来ない。逆らえば天国への扉が閉ざされる。
われわれの一般的な感覚では、人助け(=正しいこと)をしているのだから何も殺すことはないじゃないかと思ってしまう。しかしそれが必ずしも”正しい”ことでない場合もあるということである。
ここまで書いてきて改めて思う。「人助けをしている人を殺す」ことが神の御心に適い、「そうした人が天国に行ける」と考える宗教など要らない。
それならば野蛮人と思われても構わない。無宗教・多宗教の方がよっぽどましだ。今度入国カードを書く時には、胸を張って「ブランク」としよう。