西洋的「二分法」に思う

7月下旬から8月上旬にかけて、日経新聞「やさしい経済学」に、北大の中島岳志准教授が『21世紀と文明−文明の衝突を超えて』というタイトルの論文を発表された。
詳しいところは省くが、西洋思想において支配的な主体・客体の「二分法」で単純にものごとを論じるのではなく、ここでは、「バラバラでいっしょ」の「多一論」を基礎とした新しいアジア主義の可能性を追求することの必要性が説かれている。
現在経済学の主流は「情報の経済学」に移っており、主唱者のJ・E・スティグリッツらがその業績によって、2001年のノーベル経済学賞を受賞したことは記憶に新しい。
「情報の経済学」のポイントも「二分法」的考え方が中心となっている。経済は、仕事の委託者である”プリンシパル”と、仕事の受託者である”エージェント”の二者によって運営され、より現場に近い”エージェント”がより多くの情報を持つ。ここに”プリンシパル”と”エージェント”の間に情報の非対称性が生じる。こうした情報ギャップの解消を巡って両者のせめぎ合いが起こり、この過程を分析することによって、様々な経済現象が説明される。これがそのエッセンスである。
プリンシパル”と”エージェント”の組合せは、たとえば「消費者と生産者」、「経営者と雇用者」、「金融機関と借り手」といったものである。これらの間に生じる情報ギャップの解消を巡る行動が、経済現象を生み出すこととなる。
「情報の経済学」の登場によって、経済現象の説明性が高まったことは否定出来ない。ただこうした「二分法」の考え方だけで全てが説明されるというのは、にわかには理解し難い。
仕事の進め方を考えてみよう。管理者(経営者)と部下はそんなに対立関係にあるものであろうか。ことわが国の場合、管理者と部下は協同して仕事に臨み、情報も共有化しているケースが多いはずである。
これは必ずしも「二分法」では律しきれないということであり、むしろ「多一論」的考え方を採用することによって理解が深まると見た方がよいのではなかろうか。
いずれにしても西洋的処方箋が万能でないことを前提に、論者は議論を進めなければならない局面に差し掛かっていると言えよう。米国的「経済再生モデル」が躓き始めたこのタイミングこそ、そうした観点に立つた議論が真底から求められているはずである。