”美しく”勝つ

8月13日に谷本選手のことについて書いた。そこで言いたかったのは柔道は”美しく”勝たねばならないということである。ただこの”美しく”勝つは他のスポーツにも同様に言えることで、因みに女子ソフトボールの勝利は実に美しかった。
近年のオリンピックでは商業主義がはびこり、出場選手もカネや実益に舞う。まさにカネまみれである。カネをかければメダルが取れるという一方で、野球の日本チームは出場全選手中多分最右翼の報酬を得ていながらメダルに手が届かなかった。オリンピックは「負けるも花」であるが、この負けは美しくなかった。
”美しく”勝つはスポーツに止まらない。経済界でも真底は一緒である。経済界では結局「稼ぐが勝ち」である。だが他方で「悪銭身につかず」ということもある。不当に手にしたカネは散財するのが落ちということであろう。
翻って、イングランド銀行を潰した男と言われるG・ソロス、ジャンクボンドの帝王と言われるM・ミルケンは投機家である。両者の共通点として①世界有数の金持ちであること、②インサイダー取引の罪で有罪判決を受けていること、③慈善事業家でもあることがあげられる。
彼らの財産が悪銭か否かは知らない。だが彼らが合法・非合法すれすれのところで財産を作って来たことは想像に難くない。
欧米の事業家は慈善事業に興味を抱く向きが多い。総じて「貨殖興利」に否定的であったカソリックに対して、プロテスタントでは結果としての「貨殖興利」を否定しない。
カネを稼ぐことがよしんば汚い行為であったとしても、プロテスタントではそれも信仰の一貫として消化してしまう。労働は神の御心に適う行為であり、その結果カネを稼ぎ蓄財がされても何ら咎めることではないと考えるからである。
ただし最後の審判で神に選ばれるかどうかはその時の神の判断次第である。だから善男善女は神に自らの行為が認められるよう善行に励む。善行の最たるものが慈善事業である。こう見るとソロスやミルケンがどうやって稼いだカネであっても、それを慈善事業に振り向けることの構図が理解出来る。
カネに色目はないから、どうやって稼いだカネでも最終的によい使い方をすればそれでよしとする考えである。だけどこれで本当によいのだろうか。スポーツに”美しい”勝ち方があるのと同様に、カネ儲けにも”美しい”稼ぎ方があるとするのは、負け犬の遠吠えであろうか?