"Political Economy"と経済学

言うまでもなく、経済学は"Political Economy"を訳したものである。江戸期から明治にかけて種々の外国語が輸入されたが、その訳語の質の高さには舌を巻く。彼らに漢語の広く深い素養があってこそ、素晴らしく適切な語が与えられ、かつ造語されたものと思われる。
この中で"Political Economy"も、そうした素晴らしい訳語の一つである。経済は”経世済民”をつづめたものであることはよく知られている。しかし一方で"Political Economy"には”貨殖興利”の訳語も与えられていた。
A・マーシャルは「経済学を学ぶ者には”ウォーム・ハートにクール・ヘッド”が必要」と言っているが、それでも"economy"の本来的な意味からは”経世済民”より”貨殖興利”の方が訳語としてより妥当だったであろう。にも拘らず”経世済民”が採用・定着されるようになったのは、先人の深い思いがここに込められているからだと理解したい。
因みに"Political Economy"を”経世済民”と理解する翻訳は中国(清)に逆輸出され、東アジア文化圏(漢字圏)国に普及・定着しているということでもある。
翻って近年の経済学は自然科学とレベルを合わせた科学性を追求するあまり、数学的手法が大胆に取り入れられ、その分”ウォーム・ハートにクール・ヘッド”の要素が薄れてしまっている。きわめて単純に言ってしまえば、数学モデルにはそうした要素が入り込む余地が少ないからである。
科学を名乗る以上は議論の客観性・再現性が保証されなければならない。だが”経世済民”と理解する立場に立てばものの見え方が変わり、自ずから自然科学べったりの方法論も変化せざるを得ないのではなかろうか。
特に若い経済学研究者が実際の経済を経験もせずに、”知”力任せに仮想空間を作り上げ、その世界の中だけでしか勝負をしない様はまさに曲学阿世そのものである。竹中平蔵さんも”ウォーム・ハートにクール・ヘッド”を強調されているそうであるが、少なくともこれをリップサービスに終わらせてはならない。
経済学は一方でその”似非”科学性を指摘されながらも、新しい理論が経済政策の中心を占めるケースが多々ある。バブルの再襲さえ防ぎ得ないその実力を、原点に立ち返ってよく考えなければならないということではなかろうか。