あぁ!! 日本橋、それとやっぱり北京オリンピック

日本橋はよく行く場所である。少なくとも週に一度は行っている。ただ好きな場所ではあるが、その景観の醜さには何時も不快感を感じて困ってしまう。醜さの元凶は言わずと知れた高速道路。つい先日も高速を走って日本橋を上から覗き込んでみて、改めてその醜さ・無様さに唖然とした。
日本橋は文字どおりわが国のマイルストーンで、現在の石橋は1911年に作られている。橋桁には渡辺長男さん作の荘厳な彫刻が鎮座ましまし、”本来”的に世界に誇りうる近代建造物の一つである。
ところがその日本橋の上には伸ばせば手の届きそうなところに高速道路が載せられ、すっかりその景観が封じめられているのだ。折角の美しい彫刻が空に余って、高速の上下線の間から突き出している様は無様を通り越して、哀しみすら感じる。
2005年暮れ、当時の小泉純一郎総理が財界の求めに応えて、日本橋上からの高速撤去に前向きの姿勢を示した。しかしその撤去には200億円もの予算が必要ということである。一旦壊した景観はその修復に多額のカネがかかってしまうことの、これは好事例であろう。
首都高速は1964年の東京オリンピック開催を契機に建設された。時間・予算にきつい制約がある中では、日本上の高速も仕方がなかったとの弁解もされる。
しかしながら、一国の文化・歴史を途絶させる権利は如何なる政府も有さない。政府という存在はその時々の浮遊木である。根を張り続けるのは飽くまでも人民であり、その紐帯こそが文化・歴史である。景観は文化・歴史の重要な体化物と言ってよい。
ここでどうしても北京オリンピックに思いが馳せてしまう。国威発揚はよい。だが衣まみれの”上げ底”天麩羅ではお里が知れてしまう。「張子の虎」ならぬ「張子の竜」であっては世界は渇して関心しない。まして無理に無理を重ねて人民に多大な我慢を強いた結果、ようやく成功に漕ぎ着けたのだとすれば、壊したものも大きいはずである。日本橋の例を見るまでもなくその修復には天文学的なエネルギーとカネが必要となるであろう。老婆心ながら猛暑の間に間にそんなことを考えた。