終戦記念日に改めて思うこと

今年も8月15日がやって来た。63回目の終戦記念日である。小泉純一郎元総理のほか、現役閣僚の何人かが靖国参拝を行なった。昨年の今頃はまだ安倍晋三さんが総理大臣で、靖国に参拝するかしないかがマスコミを騒がせていた。それと比べると今年は親中派総理の登場で、世の中実に静かであった。
靖国問題では遊就館が槍玉にあげられることが多い。皆さんはここにお出でになったことがおありであろうか? 是非出かけられた感想をお聞かせ頂きたいものである。
私には率直なところ、(遊就館が)あの戦争を「格別正当化している」とは少しも感じられなかった。そこには、戦没者およびその親族・縁者のお互いを”思いやる心”ばかりが漂っている。
広島の「原爆死没者追悼平和祈念館」、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」、ホーチミンの「(アメリカの)戦争犯罪博物館」などを訪れた時も同じ思いであった。ただただ、国と国の抗争の狭間で未来を閉ざされた若者の”無念”が哀しい。
イデオロギーや政治的思惑から離れて、戦争の悲惨さに触れることは若い人には特に必要である。そうした悲惨さに触れて、現在の自分、将来の自分を見つめ直すことは大事である。
翻ってエノラ・ゲイの生存クルーは原爆投下を未だ正当化し続けていると聞く。軍人として命令に従っただけというのであれば、それはそれでよい。ただ自分たちの行為が何をもたらし、どれだけの無辜の民から幸福を奪ったのかについて、目を閉ざさずにしっかりと見て欲しい。これは人間として生まれた者の最低限の責任である。