ブルジュ・ドバイはバベルの塔?

中東産油国が豊富なオイルマネーにモノを言わせて、大変身を遂げようとしている。世界経済の低迷を尻目にこの地域だけは別天地であるようだ。
典型がドバイである。金融と観光を二大柱として着々と準備を進めている。市街地には高層ビル群が立ち並び、緑地に変えられた砂漠には一大リゾートが建設されている。
その象徴がブルジュ・ドバイである。来年の完成時には尖塔高818m、軒高643.3mとなり、文句なく世界一の建造物になるということである。
自国の繁栄を期し、それに向けて努力するのは当然である。だがなぜ金融と観光なのであろうか?
観光も中心は”人工”リゾートである。これには膨大なエネルギーを注ぎ込んで、砂漠を緑地化し続けることが大前提とされている。来るべき石油資源の枯渇に備えるための方策ということであるが、「無くなってしまう石油を使うこと」を前提としなければならない、このビジネスモデルは実に不思議な話である。
金融はどうか? カネのあるところに人は群がる。政府系ファンドが持て囃され数多くの投資案件が飛び交う。現状は確かにそうである。
だが金融立国など、そもそも本当に可能であるのだろうか?
米国も1990年代以降、明らかに金融立国を目指して来た。これに膨大な人とエネルギーと知恵を費やした。しかしその結果がリーマンの破綻である。
今頃になって、数多くの論者が米国型金融モデルの脆弱性・欺瞞性を指摘する。こうした脆弱性・欺瞞性をなぜ予め見抜かなかったのか?
否、ノーベル賞級の頭脳がこの分野に押し寄せたわけである。知らないはずがない。
巧妙な仕組みを作って大衆を煽り、巨額の富を手にすれば、後は野となれ山となれ。そういう理屈が働いたのではないのか? とすればこれは犯罪であろう。
経済における金融は全知全能の存在である。だからこそ先人は手枷足枷を科して、荒ぶる神を牽制した。
古来宗教は金融の営みに懐疑的であった。何も作り出さない一方で、高利を課して大衆を蝕む。またそれが一旦暴威を振るい出せば経済が壊滅してしまうことともなる。この金融の本質を先人はよく理解していた。
キリスト教において利子が禁止されて来たのはそうした背景があったからである。イスラム教においては未だ利子が禁止されており、カネを貸す対象も制限されている。
アナクロにすぎるとの謗りを受けるかもしれないが、経済は飽くまでもモノ作りが基本と確信する。金融の機能は勿論否定されるものではない。しかし金融は産業の覇者であってはいけないのである。従者の位置に止まるべきである。
翻ってアブダビをはじめとする産油国は、経済繁栄の基本をなぜモノ作りに据えないのであろうか?
カネがカネを産み出し続けるというのは明らかに幻想である。未来永劫にカネを産み出すのは唯一「モノ作りの”知恵”」のみである。
イスラム教国であるドバイにおいて、忌み嫌って来た金融に立国の死命を託すというのは自己矛盾も甚だしい。「カネは天下の回りもの」「カネの切れ目が縁の切れ目」。こうした先人の知恵を活かすべきである。否、是非活かして欲しい。
このままではブルシュ・ドバイは第二のバベルの塔になってしまうのは明らかだ。「モノ作りなくて、国作りなし」。この真理を忘れてはならない。